2011
03.16

turuga-top明治維新の戊辰戦争において最大の戦闘地となった会津若松の鶴ガ城であります。

城全体を官軍に取り囲まれ、会津軍はお城に籠城したのであります。

会津武士は、遠くから大砲をうちこまれムダな負傷者を多く出したのでありました。

どの家族も一人か二人は戦死し、あるいは重傷を負ったということでございます。

が、運のいい家族もいて、全員無事。
しかし、その無事であることが、その一族には負い目になるのであります。となりの家族がたとえば跡取り息子を名誉の戦死で失っているのに、平気で握り飯をホウバルことはできません。

なので、そういう家族は、次男あたりがかってに門外へと飛び出して、官軍の一斉射撃にやられたそうであります。

そして身内ははじめて他の家族たちと同じ気持ちで籠城できたということであります。

今朝、老母から電話がありました。
「釜石はやっぱりダメだったみたいだ」
釜石に住んでいる叔母は無事。その夫も無事。息子も無事。小学校と幼稚園の孫二人も無事。
お嫁さんだけが呑まれたというのでありました。

叔母の上尾にいる娘からの通報だと、老母は語るのでありました。
「ちっちぇ声だがらよぐ聞けねがったけど波に呑まれだど」

そうして避難所にいて身動きもできずにいる…。そういう電話でありました。

息子…つまり私の従弟でありますが、昨年の春にモリオカから釜石に引っ越したのであります。
「んだがら、んだがら、言ったっけっじぇ!」
引っ越すなら2011年。一年待てばいいとそれとなく何回か忠告したはずでありました。
「死にに行ったようなものだじぇ」

きっと避難所には家族の誰かを失った人たちがさぞ多いことだとおもいます。

老母はなにもこたえませんでした。
それが今朝のことであります。

本日は毒舌はお休みであります。
ちょっと走って参りますです。