2011
06.27

なにしろ古いばかりで無駄に広いやしきなものですから、学生時代につかっていた机がそのまま残っているのであります。
納戸に。
ひきだしには、とうじのものがそのまま、つい昨日いれたままになって、学校のプリントだの、映画のパンフだのが保存されているのであります。

さくや老母に「コンビニというところでの買い物をおしえてほしい」といわれて、セブンイレブンを見学に行き、いちいち説明する私を、怪訝な目でながめる店員に「この人は昭和初期からのタイムトラベラーです」と老母を指差したのでありますが、机のひきだしも同じで、ひらくと、あの頃の気持ちまで香り立つようでありました。

一冊の週刊誌があり、ページをめくると、このような美しい写真が目にとまりました。

若い頃には分かりませんでしたが、女の子の膝をだいてくちびるをおしつける安心感を、いまならわかるかもしれませんです。

オヤジの純情っていうアンジャルーな世界ではありますが、しかし、そういうどこかストーカー的というか、SMに通じる気持ちが分からないこともありません。
けれども肉体的に、画像のように美しいのならともかく、下腹がたるんみ、禿かけたオヤジでは、その純情さえ病的にしか受け止められませんでしょうねぇ。

夏になると、肘を擦りむかせた肘を半袖シャツから覗かせているオヤジをみかけることがございますです。電車の座席にすわりながら、
「ほほぅ、昨夜は正常位だったのですか…」
なんて思ったりいたします。
体重を支えた肘がシーツで擦れたわけであります。
女性の場合は、膝頭の内側ですね。
ここがすれていると、
「騎乗位でオタノシミだったんですね」
と微笑ましくなるわけです。

たまには、快楽を半減に犠牲にしても良いから、こういう美しいHをしたいものではありますね。
快楽をしってしまっては、美しいHをすることは、もはや不可能なのかもしれません。
Hはみせるものではなく、お互いに感じ合うものでありますれば、美しさとは無縁なのかもしれず、それがビジュアルであればあるだけ、感じ方も薄くなるという受け止め方もございますですね。

で、快楽を追求するとむごたらしいHへともつれあうことになるのでありましょうか。

いろいろと失くしたものが机のひきだしからみつかるのであります。

病院の総合待合室で老母の診察がおわるまでベンチにすわっていると、ふたつほど前の席に、知った顔を発見したものでありました。
その顔は病気に老いていましたが、高校時代になんどか会話した女子でありました。
公園の階段を駆け上っていった女子でありました。

あれからいかなる人生を経たのかわかりませんけれど、しらないふりするのが礼儀というものでありましょう。

2011
06.26

湖ではなくて、たんなる釣り堀にすぎないのでありますが、モリオカに戻るたびに足をのばす、この池を、ツルゲーネフの湖と、ひそかに名付けて感傷にひたるのであります。

感傷というほどのナイーブな心もすでに退化しておりますが、それでも郷里というところは、この地で思春期を迎えた者の気持ちを、とうじに引き戻すようであります。

滴るようなあおばを写しとった、しずかな湖面を眺めていますと、ついに自分のものにできなかった女との恋さえも、じっさいにありえたような、そんな過去の作り替えが妄想としてリアルに浮かぶのであります。
すれちがった女を「あっ!」として振り向くのも郷里ならではのこと。
それはかつて笑いあってときを過ごした女だからであります。
が、まさかであることに気づくのであります。
あれから35年の月日が経過しております。
とうじとおなじ年齢であるわけがなく、他人の空似。あるいはその女の子供か…いや孫なのかも知れないのであります。

かような感傷もバカバカしくなり池をあとにしましたら、へんな小屋にいる中学生をみかけたのでありました。
なにをしているのかは知りません。

ともだちとこうして時間をすごすぜいたくを、彼らはあとになって気づくのでありましょう。 
そしてしみじみおもいだすのでありましょう。
ちょうど私がツルゲーネフの湖をながめつつ妄想にふけったように。

こんかいのモリオカはセンチメンタルなきもちに流れているようであります。
これは関東に舞い戻ったときに肉欲として反動がでそうで楽しい不安に、いまから期待しているのであります。

2011
06.25

一昨日からモリオカに戻っているのであります。
老母が眼底出血いたしまして、その手術がきのう。
迎えに行ったら、血の気のひいた老母が眼帯をかけて病院の外で待っていたのでありました。
「明日の朝さ」
と母。「吉野家っていうところで朝の定食たべねっか?」
どうやら老人会などで吉野家の朝定食の話題があったらしく、それではどういうところなのかと、いたく興味をひかれたもようなのでした。

そこで、今朝、病院に届ける途中、国道沿いの吉野家にたちより、ごらんの定食をそれぞれ食ったというわけであります。

老母、五十代の息子が向かい合って定食をたべている姿は、どのようなものか想像するのも恥ずかしいのでありますが、こういう体験もなかなかのものなのであります。

会話は、「安寿と厨子王」でありました。
その物語の最後。国主となった厨子王が、とある寂しい漁村をとおりかかると、むしろにすわって刈り取った稲をついばみにくる雀をはらっている盲目の老婆をみとめるのであります。それが何十年もむかしに生き別れになったままの母でありました。見る影もなくやせ衰え白髪になっためくらの母は歌っているのであります。「厨子王こいしやほうやれほう、安寿こいしやほうやれほう」と。そこにいるのは大きな雀かと、老婆は竹ではらいながら、歌うのでありました。竹は厨子王のすねにあたります。そのうちに気配で、だまって立っているおとこに、もしやと老婆は察します。「厨子王…」、「母じゃ!」とふたりはひしとだきあうのでありました。

吉野家の朝定をつつきつつ、物語をなつかしむ、眼帯をした老母と五十男のそばには、一定の距離をまもるように客も従業員も近寄らないのでありました。