2011
06.26

湖ではなくて、たんなる釣り堀にすぎないのでありますが、モリオカに戻るたびに足をのばす、この池を、ツルゲーネフの湖と、ひそかに名付けて感傷にひたるのであります。

感傷というほどのナイーブな心もすでに退化しておりますが、それでも郷里というところは、この地で思春期を迎えた者の気持ちを、とうじに引き戻すようであります。

滴るようなあおばを写しとった、しずかな湖面を眺めていますと、ついに自分のものにできなかった女との恋さえも、じっさいにありえたような、そんな過去の作り替えが妄想としてリアルに浮かぶのであります。
すれちがった女を「あっ!」として振り向くのも郷里ならではのこと。
それはかつて笑いあってときを過ごした女だからであります。
が、まさかであることに気づくのであります。
あれから35年の月日が経過しております。
とうじとおなじ年齢であるわけがなく、他人の空似。あるいはその女の子供か…いや孫なのかも知れないのであります。

かような感傷もバカバカしくなり池をあとにしましたら、へんな小屋にいる中学生をみかけたのでありました。
なにをしているのかは知りません。

ともだちとこうして時間をすごすぜいたくを、彼らはあとになって気づくのでありましょう。 
そしてしみじみおもいだすのでありましょう。
ちょうど私がツルゲーネフの湖をながめつつ妄想にふけったように。

こんかいのモリオカはセンチメンタルなきもちに流れているようであります。
これは関東に舞い戻ったときに肉欲として反動がでそうで楽しい不安に、いまから期待しているのであります。