2011
11.23

モリオカの実家の柿は渋柿なのであります。
それに焼酎をぶっかけビニール袋にいれまして約三週間。
渋さは抜けて、甘い、私メの好みのドロドロ柿が出来上がるのであります。

味わいつつ、考えるのでありました。

渋さとは、自分を守るためのものかもしれないなぁと。ホントは人間が食ってはいけないモノなのかもしれないなぁと。

きっと、野菜にも果物にも微量ではありましょうが、毒が仕込まれているに違いないとも思うのであります。それらを毎日、口にすることで老いとか病とかになるのではなかろうかと。米の一粒一粒にも毒があるのだとすれば、ふーむ、と考え込んでしまうのであります。

兄弟子が言っておりました。
「貧乏人は不味いものを腹いっぱい食うから醜くなり、金持ちはイイものを少しだけ食うからいつまでも健康で美しいのだ」と。

ては、恋はどーなのだろうと、いつものように考えはソコに至るのであります。
たくさんの恋…それは遊びだろうと指摘されたとしても恋は恋。そういうたくさんの恋を経験すると、やはり恋の毒にやられるのではないかと、つい鏡をのぞきこんでしまうのであります。

歌い手が、一定の年齢を越すと「あの頃は遊びまくっていた」と当時のことを語りはじめる場面は良くあることであります。ひとしきり語ってから野太く笑ったりいたしますが、品性は笑いに出るものであります。

これは歌い手や女優だけでなく、普通のお女性でも、下品な笑い声を発する人は、かなりの男を経験してきたことで一致するようなのであります。男にとっては、そういうお女性はたまらないほど魅力的にうつるのでありますが、しかし、好きになっても紹介するのはちと気が引けるものでもありますです。

やはり恋にも毒があるのでありましょうか。
そうやって、たいていの恋では傷つかないたくましさを宿すものなのでありましょうか。

そういえば、恋から隔離されてきた老嬢は、思えば、いつまでも品の良さを失わないものであります。

恋の毒にやられずに気品を保つか、下品に転落してもいいから、激烈な恋愛を体験するか、そこが問題であります。

いやいや、恋は選べるものではなく、惹き寄せられるものであることも事実でありました。

口のなかで柿はどろりと溶けてほどけるのでありました。