2012
03.16

久しぶりの神保町でありました。

この街はじつに落ち着くのであります。
ぶらぶらと古本屋をのぞいたり、たまには真面目な岩波ホールの映画にうたた寝をしたり、珈琲をすすってみたり、そんなふうにして20代の頃から、この街で過ごしてきたものであります。

再開発される前の神保町は、もっと魅力的でありました。
代替わりしましたが、オートバイ屋のオヤジがいて、そこでオートバイを買ったのは、24歳だったでありましょうか。

すずらん通りの中華屋には、バカに背の高い中国人の兄弟がおりまして、彼らのこしらえる中華丼の美味かったこと。
まだ、ぐつぐつ煮えている丼に、生醤油をたらすと、まこと香ばしくて、むがむちゅうで喰ったものであります。

そんな古巣ともいえる神保町に来たのでありますから、いつも通っていたラーメン屋に挨拶しないわけにはいきません。

が、不吉な予感を覚えました。
あるはずの店が無くなって新しい建物にとって代わっていたり、「おやおや」という街の変わりようだったからであります。

イヤな予感は当たるものであります。
そのラーメン屋はとっくに店じまいをしていたのでありました。

悲しいことであります。
もう、店を閉めてしまったということは、あの店主とは話も出来なくなったというわけであります。

いつもだらしない恰好で来ていましたから、あわれに思ってか、焼き豚をオマレしてくれたり、麺のなかに煮玉子を隠して出してくれたり、他に客がいないときには餃子をボランティアしてくれたのでありました。
だから、ますます良い服を着ていけなくて…というラーメン屋だったのであります。

アメリカ軍が空襲せずに残った神保町の古い街も、しずかに変わっていくようなのでありました。
いちじスキーブームで、古本屋を買い占めた業者によってスキー専門店が連なったこともありますが、もうスキーを取り扱う店はほとんと皆無でありますです。

しかたなくベローチェで野菜サンドを頬ばることにいたしたのでありました。

しかし、街の配置とは、空間だけではなく、時という縦軸もあることに、あらためて気づかされた日でございました。

「どこがいいの、こんなつまらない街の」
なんて言われたこともありましたっけ。
「渋谷とか六本木がわたしは好きよ」
と、神保町を退屈な街といわれて、いささかショックを受けたというか、「よーし、いつかこのお女性を傷つけてやるぞ」と心に誓ったこともございますです。

が、若い連中の考え方の通りに街は変化して、私メはその新しい街のなかで、取り残されたような、迷子になってしまったような、そんな気持ちだったのであります。

そして亡父が、キノコ採りで山のどんどん奥へと分け入っても、まったく迷わないのに、上野駅の構内で途方に暮れて大汗をかいていたことを、複雑な気持ちで想い出すのでございました。