2013
02.25
やはり鍋焼うどんなのであります。
が、時間は3時。
ランチタイム後でありまして、知っている店はすべて午後のお休みとなっておりました。
やっと見つけて入った店、安曇野というのですが、すっかり体中が冷え切り、店内に入るなり、おショウベンをするために奥へと駆けこんだのはいうまでもございません。
妙に安いのであります。
画像の鍋焼うどんが680円。
メニューだけでは信用できず、万が一のことをかんがえて、天ぷらの小も注文したのであります。
こちらは290円。
が、出てきた鍋焼うどんは、上の画像の通り。
立派なモノでございました。
瞳をうるませつつ、うどんの熱を体内に取り込むのでありました。
極寒のために、デジカメまで調子がおかしく、電源が入ったり切れたり。
以前、酔っ払って壊れかけていたデジカメの古傷が、ここにきて出たようでありますです。
ともあれ、安く美味いというのですから言うことは何もございませんです。
予定していたことは一応済ませましたので、あとは関東へと戻るだけなのであります。
郷里を離れたのが18歳でありまして、何度も戻っているはずなのに、精神状態はそのあとの40年間の歳月を飛び越えて、そのまま接続され、18歳の意識でモリオカをみてしまうのでございます。
この店の向かいには自動車教習所があり、そういえば高校の友人が、ここに通い、2歳年上の19歳の受付の子と結婚したものだったと、時を飛び越えて思いだされるのでありました。
そして、その2年後に、幼い子供を押し付けられ、彼女は別の男のもとに去ったのだったのででした。
その女の子も40歳かぁ…十二分に射程距離ではないか…。
いかんいかん、と鍋焼うどんの汁を未練がましくすするのでございました。
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2013
02.24
吹雪の一日でございました。
実家の周辺を散歩することにきめ、完全防備で凍結した湖畔をめぐったのでございます。
雪に閉じ込められるのは悪いモノではありませぬ。
「十傳スクールの夜の部をいつからスタートさせようか」
などと思考するには、邪魔する外部との交友を諦めさせてくれるので、深く深く集中できて良いのであります。
「五月から!」
そのように決めたのであります。
第二、第四の、火曜と水曜…。
ほぼこれで決定でありましょう。
詳細は、関東に帰ってからお知らせいたしますです。
雪を踏む音は、卑猥な本能をとても刺激するものであります。
若い頃であれば、書店の店先で雪をほろいおとしエロ本を買い求めたことでありましょう。
が、いまはギチュッ、ギチュッと靴底に雪のつぶれる感触のむず痒さだけで満足満足。
五月になれば、湖畔も画像のような花と鏡のような水で溢れるのであります。
ボートを浮かべ向きあう男女は意味もなくニヤニヤしあう光景があそこにも、ここにも見出されることでありましょう。
もしも体験したことが無駄にならない分野があるとすれば、占いも数少ないひとつかもしれませぬ。人は踏み出した一歩で決まるモノであります。
容易には、その一歩を翻すことはできませぬ。
成功や挫折の体験がすべて活かされる分野はそう多くはありませぬ。
占いの法則とは、人間の世界の法則をなぞっているのでありますです。
さまざまな体験と、占いの知識がリンクした時「!」と頭の中で火花がスパークすることでありましょう。
それは自分を救うことであり、仕事にすれば他人にひとつの道標を提示することになるはずであります。
思春期であった私メは、この湖畔で、すでに濁情の悦びを覚えていたのかもしれませぬ。
当時はむろん純愛と信じて疑いませんでした。
「その娘さんと一生添いとげる覚悟はあるのか!」
と、亡父から叱られたとき、
「まさかまさか」と否定し、心の中で「これは経験の一つだけだべ」と亡父のまじめ一徹をあざ笑ったモノでありましたから。
私メがやったことといえは、日暮れの湖畔で他校の女子とボートに乗り、木陰の入り江で隠れるように、ニヤニヤとベーゼを交わすことでありました。
ここが、その「ベーゼの木陰」
はやくいたさねば毛虫が落ちてまいります。
「オノ君、いまわだしに、キスしたのぉぁ」
「わるがったがぁ?」
「いぎなりだったがら、とかとかずぐなってるぅ」
「んだば、こんどはゆっくりやるべ」
などという声が過去から蘇り、赤面するのでありました。
いやや、とにかく、このような体験さえもが、占いでは最大級に活かされるのでありますです。
原則をまなび、そこに仕事なり、恋愛なりの体験で肉付けすることで、どくとくの判断が可能になるのでございます。
五月からお勉強をしてみようと思うお方は、ご連絡をくださいまし。
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2013
02.23
なにしろ例年にない雪の多い年なのであります。
震災から二年。
三回忌の法要はふかい雪の中でおこなわれたのでありました。
震災ボランティアのコンサートとか、日本は一つだとか、絆だとか、そういう気休めはまだまだ通用しない、理不尽な悲しみに、この雪は憤っているようにも感じないこともないのでございました。
ひとえに人々は、民主党さえなければ…と小沢一郎のパシリの岩手県のたっそ知事などに憎しみを込めるのでありますが、死者がよみがえる道理もありませぬ。
一年ぶりに再会する従妹たちも、一年間の老いがにじみ出て、かつては「うぐすか泣かせたこともある」美女だったはずなのに、雪をとりのそく作業に、髪の毛がわれて白髪がのぞき、「ああ、みなみなも白雪姫になったことよ」と、私メをして、嘆かせるのでありました。
従弟のお嫁さんである死者も美人であり、その妹さんも美人。
が、白雪姫にかわりはありませぬ。
雪の中から、ちいさな花飾りが出てきたのでございます。
遺児たちに聞きました。
「カナちゃんがあげたの?」と。
するとカナちゃんは、リナちゃんとね、と妹と笑うのでありました。
「クリスマスのイブにふたりでここにきて…」と。
まだ小学生である二人も、いずれ、うぐいすを泣かせる美貌になる片鱗を、そのとき私メはそのお顔に、みとめたのでございます。
死はだれにでも平等にふりかかる、ひとつの扉であるのでありますが、それがいつなのかは容易に知ることはできませぬ。
生きたいと思っても生きられず、死にたいと願っても死ねない。
死ねばいいとおもっても死んでくれず、もっと生きて欲しいとお祈りしても逝ってしまうのが世の常でありますです。
豊かな乳房におもわず顔をうずめ、ぬくもりと体臭と同化しようとしても、皮膚一枚のその下で鼓動する生命の高炉をどうすることも出来ないのでございます。
ただ冷えたカラダを燗酒で暖めるだけでありました。
白雪姫たちと浦島太郎が、死者の霊を慰めるのでありますが、自分たちも刻一刻と、死の国へと歩んでいるのでございます。
「ずんぶんひとりで飲んでるよン」
と隣の老母に喪服の肘をつつかれ、気づけは七合。
切り損ねたローストビーフが、となりまで吹っ飛んでしまう始末。
ホテルでは幾組かの結婚式もありまして、開始するときは参加者のにこやかなお女性たちと、帰りのロビーで一緒になりましたが、なぜか、皆々さまは、どす黒い表情をしているのでございました。
まだ法事帰りの白雪姫たちの方が、仏様の如くでありました。
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