2013
03.22

めっきり喫煙ルームも減りまして、東京駅でも大手街へつづく、この場所くらいなものでありましょう。

私メは、ここでは喫煙いたしませぬ。
喫煙ルームは空気が悪くてかないませぬ。
やはり、キレイな空気で、風のない場所でくゆらすのが最高なのであります。

吸えればイイというものではありませぬ。
「あんや、タバコを飲みすぎだよん」
などと老母から言われることがありました。

タバコを飲むという表現は恐ろしいモノがございます。

しかし禁煙も平気であります。
一週間くらいなら吸わなくても平気。

禁煙明けに、肺細胞がメリメリと壊れるほど吸いこむ快楽は、この世の快楽のなかでも極上の部類に入りますです。

で、この喫煙ルームでありますが、ここがなかなかの出逢いのスポットらしいのであります。
罪人同士が、なんとなく後ろめたい気持ちを共有するからでありましょう。

かちあう視線にも、どこか暖かい同士意識が流れるのでありましょう。

「出逢いはどこでした?」
と結婚披露宴で聞かれた時、
「駅の喫煙ルームで…」
とは申せぬかもしれませぬ。

パチンコ屋も、同じ意味で出逢いの場と言えなくもありますまい。
が、みな目を血の色に染めつつ勝負をしておりますから、キッカケがつかめませんでしょう。

考えてみると、出逢いというものは、なかなか難しいものでありますですね。
同じ学校、職場、趣味、あるいは紹介でありましょう。

旅先で出逢うなどはドラマの中だけのことかもしれませぬ。
私メは一度だけ東北本線のなかで、美味しい思いを体験したことはございますが、それだけでありますです。

共犯意識を、どこで接続させるか、ここが決め手でありましょう。

居酒屋のトイレの前で、「これはイケるぞ」と目が合い、微笑みを交わすことはあっても、それぞれの仲間が邪魔をしやがって、つかの間の期待に終ってしまうものであります。

いやいや、いま「出逢いのスポット」の原稿を作成しておりまして、困って腕を組んでいるわけでありますです。

2013
03.20

男根のような桜の蕾が、幹から勃起していたのでありました。
卑猥さは画像にあるのではなく、画像を見る心の中に存在するのでありましょう。

公園でコンビニの袋に桜の花の花びらをたくさんいれて、女の子の頭上からシャワーのように振りまいている若い男を見かけました。
それは10代の私メだったかもしれませぬ
女の子は期待ほどには喜ばず、無邪気に舞いあがっている私メを諦めたように微笑するのでありました。

半年後には、別の男の子供を孕み、高校を二年で中退する運命であることなど知るすべもありませんでした。
「その男はいったい誰なんだ?」
と行きつけの喫茶店のマスターにといましたが、
「それは言えね」

彼女は私メに、こう言いました。
「最低な男だね」
と、その後、幾人のお女性に、何度も言われ続けてきたお褒めの言葉が、初めて言われた別れの言葉でありました。

これ以上は出来ないほどのやさしい態度を、彼女に取っていたのに、、どういうわけで「最低な男」となるのかを知るのは、10年以上の歳月が必要でありましたけれど、彼女を孕ませ、そして籍を入れた男に対しての敗北感は、すでに自覚しておったのでありました。

それからの彼女の行方は分かりませぬ。
あれほど恋い焦がれ、想わぬ日はなかったのに、いつの間にか日々の濁情に忘れてしまっているのでございました。

それでも、野に花が咲き始めると、遠い痛みがよみがえりますです。
「雪の女王」によって瞳に氷の欠片をいれられた少年カイのように、大切な何かが思い出されたような気持ちになるのでございます。

ああ、アリが花々の匂いに酔ったように這いだしておりますです。
冬のぶり返しがきたらどーするのでありましょうか。

あまりにも華やかな10代を送ってしまうと、その後の10数年は、過去の光に滅ぼされるものであります。

彼女の、そしてその子供の、そのあとの運命を妄想するばかりでありますです。
誕生日を記録しておりましたから、調べると、やはり「桃花殺」がいくつもいくつも付され、官殺混雑という、ロクでもない男に弄ばれるという命式でありました。

「最低の男」と口にしたのは、あるいは彼女も初めてで、それをカワきりに、いままで何回もいろんな男に浴びせたかも分かりませんです。

では、最高の男がこの世に存在するのでありましょうか。
存在したとして、最高の男のどこが楽しいのでありましょうか。

いやいや自分を正当化しようとしているのではありませぬ。

ただ、こんなにも早く春が来て、次の季節をどのように期待して待てばいいのかと…そこが案じられただけでありますです。

うららかな春の陽光に復讐するかのように、午後からは修羅のような風か渦巻いているのでありますです。

「ある日、ある人と愛して、ある日ある人と別れて、大人になる」という歌詞の昔のTVドラマの主題歌が風の向こうから幻聴されたのでありました。

2013
03.19

日差しが花を咲かせるのか、春の花々がいっきに目覚めたのでありますです。
道の両脇は、いまや花の宴。

咲かねば損をするとでもいうように、咲き急いであるのでありますです。

運命学的には、人それぞれ開花の時というものがございます。
20代で咲く人、10代のうちから満開になり、さびしい30代を送る人。
40代になってから絢爛と咲くお方もおりますです。

そういう花々に、聖書の「伝道の書」などはなぜかとても似合うのであります。
「伝道の書」とは絶望的な内容がちりばめられ、華々しい花の宴には、ちょうど良いバランスの取れた書でございますです。

「伝道者は言う、空の空、空の空、いっさいは空である」で始まり、「日の下で人が労するすべての労苦は、その身になんの益があるか。世は去り、世はきたる。しかし地は永遠に変らない。日はいで、日は没し、その出た所に急ぎ行く。風は南に吹き、また転じて、北に向かい、めぐりにめぐって、またそのめぐる所に帰る。川はみな、海に流れ入る、しかし海は満ちることがない。川はその出てきた所にまた帰って行く」

ね、まるで東洋哲学の如くなのでありますです。

で最後は、
「わが子よ、これら以外の事にも心を用いよ。多くの書を作れば際限がない。多く学べばからだが疲れる。事の帰する所は、すべて言われた。すなわち、神を恐れ、その命令を守れ。これはすべての人の本分である。神はすべてのわざ、ならびにすべての隠れた事を善悪ともにさばかれるからである」
で締めくくられておるのであります。

神を「運命」と置き換えるとなかなかのものでありますです。

春の日に、暗い古本屋の奥で、美人のおかみさんと会話をしているような、妙にエロチックな雰囲気が「伝道の書」にはビルトインされているようでございますです。

花々は何も知らずに咲くのでありましょう。
そこから運命だの濁情だのを思想するのが人間というわけであるのでありましょうね。

が、花に誘われて宵の園を歩くのは、ひどく贅沢な感じがいたしますです。

蕾や、開花したてのみずみずしい花の匂いが、夜の闇にのって、そこはかと漂うのは、はやり男と女の心をせかせてもいたし方のないことでございます。

「私のことも見て!」

振り返りましたらば、花の終わった梅の木に一輪だけ梅の花が咲いているではありませんか。
みんな瞑ったあとで、一人の美少女が誕生したような感じでございます。

ああ、おいで、と手を差し伸べたくなるような桃色の花でありました。
「私は行けません。この木から離れられないから」
なんてことを言ってくれたら最高でありましょう。

咲き終わったのか、これから開花の時を迎えるのか、それが分からないことが人間の悩みでありましょう。
でも今宵は、
悩みをわすれて、「伝道の書」を小脇に抱え、花見をいたしましょう。