2013
10.21

お酒は器で味わうものであることは古来、うるさいほどに言われてきておりますです。

このペルシアの盃で飲むと、遠い異国の鐘の音の重さが聞こえてくるのであります。

焼きがあまいので、めったに口をつけることはございませんです。

もしも、お女性に、この盃をすすめることがあるとして、その時、私メは、そのお女性のくちびるに見惚れるかもしれませぬ。

この盃にいたるまでの、くちびるの歴史を。

二歳で片言の言葉を発し、五歳でお箸を使い、七歳で悪口を覚えたくちびる。
10歳で悪戯に紅を染め、14歳で煙草やお酒の苦さをしり、16歳で「好き」と言い、17歳で男の唇に触れた、そのくちびるの歴史を、でございます。
はじめて求められるままにくちびるを使った時の、耳まで火照った興奮を、まだ覚えているのだろうかと、私メはじっとうかがうことでありましょう。

「うしろからして」
と要求されても、やはり、くちびるが気になるのであります。

やがては悪態をつくだろう、そのくちびるが、やわらかな美しい言葉を紡いでいた歴史を記憶していたいのかもしれませぬ。

「わたしが精神科に通ったのは…」
くちびるが心の模様を語り出した時、じつは私メこそが、そのくちびるに包まれたいのだと知ることがございます。
そのためには同じような心の痛みを知らねばなりませぬ。

けれども、鍛えられた私メの心はめったに傷つくことはないのでありました。
易者になるためのセッションを受けてきたからでありましょうか。それとも、心の皮膚までが分厚く角質化しているからなのでありましょうか。

半分はお女性のためにある私メのくちびるの、残りの半分のくちびるはお酒の盃のざらつきを感じるためにあるのでありますです。

お女性さん、今夜は庚申。
夜更けまで私メと盃をかわしましょうぞ、つむった瞼のなかで。
お酒のたわんだ波紋に、小さな舟をうかべてみましょうぞ。瞼のなかのペルシアで墜ち逢えるかもしれませぬぞ。

と、たまにはポエム調も悪くありませんですね。