2014
03.05

ああ、姦淫とは、なんと麗しい言葉の響きであることでしょうか。

「姦」は女の文字が三つ。複数のお相手ということでありましょう。
「淫」はサンズイ偏に爪と壬。壬は王の上の文字が傾いたものであり、また「´」があれば主。「´」がないので主ではないのでありますから、主人を裏切ることに通じますです。欲情の誘惑という爪で主人を奪い、水事…つまり色情に引きずり込む意味合いがございますです。

しかし、「神、神」と必要以上に奉りますけれど、釈迦によりますと、
➀如来②菩薩③独覚④声聞とあり次に⑤天(神)で、それから⑥人間⑦修羅⑧畜生⑨餓鬼、さいごに⑩地獄という順位なのであります。

釈迦の考え方から、神は生き物の一つであって、人間よりは高等ではあっても、それほどズバ抜けた存在ではないと解釈できるとも思えるのでございます。
とすれば、神におびえることが、地獄という観念にも通じるのでありますです。

で、ありますから、神に裁かれたところで、それは係長あたりに文句を言われる程度のことなのでありますです。
ことに姦淫の罪とは、人間が勝手に作り出したモラルの延長線にある刑罰でありますです。

それよりは姦淫という麗しい響きに身を任せることが如来への道と、私メはテキトーに解釈しているのでありますです。

ほれほれ、死肉を焼く、この地獄の業火のなんと美味そうな匂いのことか。

罪もない牛を、金銭を得るために飼育し、果てには殺し、それをお金を出して食うという行為は裁きの対象にはされないのでありましょうか。

が、やはり姦淫は罪としての位置づけであるほうが、快楽の美酒はさらに美味さを増すのかもしれませぬ。

心と肉体を切り離して考えるお方もおりますです。
しかし、音楽に感動した時に鳥肌が立つように、財布を落とした時に心臓がズキンと痛むように、心は肉体と連動しているのでありましょう。

いや違う。心は肉体の一部であり、肉体は心なのでありますでしょう。

心も泥にまみれなければ本当の快楽を得られないのは当然カモしれませんです。

昨日は、ホルモンの食い過ぎで、胸やけに苦しみ、神の裁きを受けたのでございました。