2014
10.16

秋も深く、今宵は信州の名酒、真田幸村で酔うことにいたしました。
煮魚を肴に。

以前、切支丹を調べに九州は天草を訪れたことがございます。

そのおり、島原の乱の首謀者、天草四郎は天草甚兵衛の子供だったと手帳に記しております。
天草甚兵衛とは、戦国時代の終わりに、豊臣側について活躍した真田軍の、真田六文銭組の参謀格の、天草甚兵衛ではあるまいかと、つい妄想を刺激してしまうのであります。

六文銭組の天草甚兵衛の、出身は天草なのでございましたから。
島原の乱が1638年。大坂冬の陣は1915年。単純に計算しても、大阪冬の陣から23年後に島原の乱が始まっておるのであります。天草甚兵衛が同一人物だったという妄想はけっして現実からはみ出したものではありませぬ。

ふーむ。
この人物が参謀格という点も面白いのであります。
真田軍の戦と、天草の乱の戦の方法の相違点を探ると、そこに共通した軍略が現れるかもしれませぬ。
そして、その軍略が占いに関しているものであれば、興味はさらに深まりますです。

天草を調べていた当時、私メは原城に立てこもったなかに、切支丹以外の多くの百姓がいたことに、とくに着目しておりました。
その百姓たちは、切支丹から「なんでハライソを信じない者がここにいるのだ」と差別されていたことに目を奪われていたのでありました。
そして、調べると島原の乱の蜂起の原因は、切支丹迫害に反抗したことが原因ではなく、ぼんくら領主の家老多賀主水の悪政による飢えと貧困だったようでもありますです。むろん切支丹の弾圧もございましたでしょう。
切支丹どもは、どこか特権階級をもっていたということに、海外と聞くと平伏する日本人の原点をみた思いだったのでございますよ。

が、天草甚兵衛でございます。
名前はショボいのですが、これは実に良い分野。

ふーむ、ふーむ、濃厚な名酒、真田幸村は、今宵の私メを淫らにさせず、清廉なる学徒に仕立てているようでございました。