2017
09.24

9月の城下町は人のかげも絶え、虫の声も聞こえず、滅びうすれかけた陽光が
「おーい」
遠く呼びかけているだけでございます。

みな郊外のイオンなどに出払っているのでありましょーか。

歳をとると郷里の歴史などに好奇心が湧き、大通りを歩くと、
「ここは、かつては北上川がお城まで流れていたのか」
とか、
「城の西側はみんな田園だったのか」
まるで、色気のないことはなはだしくなるのでございます。

風水で見たりもしまして、ところが、風水書にある吉相の場所は、湿気が抜けきらぬ場所が多く、
「書物はあてにはならぬな」
と新発見することも多々ごさいますです。
いや吉相は、そもそも存在しうるのか。
市内の随所に湧水がございまして、しかし、あまり美味ではなくて落胆するのですが、いちおうは美味いと言ってみたくもなるのでございます。

ペットボトルに持ち帰り、珈琲やら料理にも使用いたしますが、
「なにかした?」
老母は、私メの顔に怪訝であります。
「青龍水から汲んできた」
と申しても、へえー不気味だーんと、その程度の反応であります。

新幹線や高速道路が出来て、1000キロくらいは平気な行動範囲になりましたが、100年前は、おそらく人間は、半径40キロくらいの環境で生活していたハズであります。
そして地面もコンクリートではなく、雨の降った後はぬかるむ、むき出しの土であったのでございましょう。
外国旅行は遠い夢でありましたでしょう。

方位のことを考えさせられるのでございます。

恋愛の観念やお金に対する観念も相当なギャップがあったはずであります。
新しい遁甲の観念の導入が必要な気もいたします。

とは言いつつも人は自分の檻から1センチも出ることのない生き物だし、恋愛やお金に対する観念が変化したとて、やはり根本にある欲望だけは変わることはありますまい。

「いい大学に入りたい」
「しやわせな結婚をしたい」
「お金持ちになりたい」

それぞれの希望はありますが、
「その希望の根本はなにか」
根本は大学合格ではなく、別のところにあるのだと気づいたり、発見することで、その時点から奇門遁甲はいまでも活用することが出来ますです。

「お金がないから不幸だ」
「お金があっても不幸だ」
「美貌に生まれているが不幸でたまらない」
「私がイチバン不幸だ」

数ある占いの中で、奇門遁甲だけがそういう欲望を満たしてくれる無二の術なのであります。
「奇門遁甲なんて嘘ですね」
「だいたいにして占いをマジで信じているのですか」
いいぞ、いいぞ、占いを信じることはございません。占いを疑い、常識の世界に帰り、せいぜい不幸を満喫すればイイ。信じるな。信じてはならないし、占いを信じない占い師が占う占いは、勉強の足りない、まがい物を取り扱うに等しい存在だのだから、そういう人は結局は何をやっても中途半端な、けれど下手にちょこざいな知識があると思っているだけに始末の悪いお方で、そーやって生涯を適当に閉じることになるのであります。

お粗末な感情で
「信じない」
と宣言しても、占いは歴然とそこにあり、長い歴史の中で生き物のよーにうねりながら存在しているのでございますです。

「これは神様だが知っていればイイ知識なのだ」
亡き師匠の一人が語った言葉をかみしめるのであります。

占いから脱落していく人々に、私メはひそかにエールを贈っているのでありました。アーメンと。

政治家さんが依頼にくる季節が幕を開けよーとしていますです。