2018
08.13

花は咲くためにあるのだと、最近、とくに強く思うよーになりました。

たとえ枯れてもイイから一度は人々の目に止まるよーに華やかに開花しないと花としての価値はないかもしれませぬ。

私メの庭には、一株だけどーやっても咲かぬ、つるバラがございます。ある年には一つだけ蕾をつけましたが、ついに、蕾のまま枯れたのであります。
「刈り取ってしまおうか」
と思っては、「いやいや、それは可愛そーだ。なにしろ、ずっと前から、ここで根をおろしていたのだから」と温情をかけておりました。

が、そのうちに花を咲かせない代わり、棘ばかりが目立つよーになり、手を焼かせるのであります。

美貌にすぐれない意地の悪いお女性に似ているとも思います。
才能に乏しい、それでいて自己顕示欲だけが強いアーティストのよーでもあります。

小さくてもいい、たった一日だけでも良いから、花は咲かねば面白くございません。

水連とくれば画家のモネでしょーか。
盲目にちかい視力で描いた晩年のいちれんの水連の絵画は、モネもこうであったかもしれないと目をぼやかして鑑賞していると、水すらが動いて迫ってくるのであります。

しかし、作品に中には蓮の葉だけの絵もあり、それは寂れた感じで、展示場の中でポツンと取り残され、怨念のよーな気配すら放っているのでありました。

語りかけてくるよーに咲く水連を眺めながら、
「庭のつるバラを切ってしまおう」
と思うのでした。切ってしまうことが、お互いのためなのかもしれないと。温情は私メだけの勝手な思いやりだけで、実際は、咲かぬバラをさらに醜くしてしまうことなのだ。

そーして庭のそのいっかくを美しい花で飾ろう、と。