2019
01.17

昨夏のあまりの暑さのために、発作的に工務店を呼び、実家の離れを注文したのでありました。

設計とか色々と段取りがあり、やっとこさ棟上げ。

「夏までには完成するのでしょうね」
念を押し、壁は何色、室内は…と我儘を頼むのでありました。

が、せっかくの庭はクレーン車とかで滅茶苦茶。
立ち木の数本も伐採。

また最初からの庭づくりになりそーなのでありました。

さて、2020年の、忌々しい汚れた五輪が万が一にでも開催されたならば、私メはこの離れに退避することにしております。
東京育ちではありませぬが、東京が外国人のウンコでいっぱいになることは見るに忍びないのであります。

前回の東京五輪でもお濠の上に高速道路が設置され、お濠はドブ状態。

「大地震よ来い!」
「富士山よ、噴火せよ!」

もう、どーでも良く、私メの居場所だけはキチンとキープしようという試みへと意識が向いてまいりました。

離れが完成したならば、次はガレージ。

老母から車を取り上げようとするたくらみであります。
90歳の老母は、目に注射治療をしながら現役のドライバーであります。

ガレージを作り、クルマを新しくすれば、
「あんや、この車では運転でぎね」
と諦めることでありましょう。

こちらは五輪とは関係ありませんですね。

とーなることやらでございます。
風水家相の対策はキッチリとしているのでありますが。

2019
01.16

苺色の血のにじんだ足をひきずって雪の女王が地下鉄の入り口に消えていく姿を見送りました。心を矢で射られて、よろめく兵士のようなその姿を。

郷里の凍えた雪をすくいあげると、手の中で結晶は、水滴となって指の股からこぼれ落ちるのでありました。

出逢うたびに傷つける相性というものが、この世界には存在するのであります。傷つくにもかかわらず、たとえばマスカットの匂いの夏の終わりや、ウィスキーの似合う真冬の夜中などに、ふと強烈なまでの引力をおぼえてしまうのは、心臓に突き刺さった氷の刃を溶かすのは、その相手しかいないからなのでしょーか。

深夜に一度だけ鳴る携帯の呼び出し音。非通知。

氷に閉ざされた官星の命式。

暖めて氷を溶かせば官星の刃が、心臓に刺った刃が身を貫くのであります。
「復讐してあげるから、わたしの心臓をあたためて」
家族という森のなかでは氷の刃を抜けないのか。
深い愛では抜けないのか。
買い物をし、洗濯をし、料理や掃除をし、布団を日干し、笑い、子供や夫を送り出し、あるいは迎え、「いってらっしゃい」「おかえり」「おはよう」「おやすみ」。本をめくり、映画をみて、音楽に耳を傾けていても、心臓の氷の刃は溶けることはないのか。食い放題の焼肉の肉片を並べている幸せな時間の、その一瞬、周りの騒音の波が引いていく空白になる体内の奥で、氷の刃の叫びをきいてしまうのか。軋むようなその叫びを。

まな板で大根の千切りをしながら、
「甘い復讐の、あなたに与えるひとつひとつを思い描いているの」

氷の女王のすむ森には、白い鴉が枯れ木で羽根をやすませ、くわえていた苺をおとし、そのみるみる拡散する赤色に、はじめて語り合う友も家族もおらず、周囲は茫漠たる荒野だったことに気づくのであります。

苺の汁はくちびるの端から鎖骨の窪みにしたたり、
「復讐してあげなくちゃ。そして氷の刃を深くつき通されに行かなくちゃ」
千切りの手をとめて、包丁の刃先にうつるくちびるを見つめるのでございます。うるけるほど吸われた記憶のきれぎれが。
その時、風が生まれるのであります。前髪がなぶられます。

命式にある星がざわめくのであります。
音を立てて鴉が羽ばたくのでございます。

同時刻、私メは、凍った雪をすくいますが、不意に吹く風が吹き飛ばします。
「おれは何をしていたのか」
少年カイのあたまから記憶のいっさいが失われたよーに。

郷里という場所は、妄想が妄想をさそう時空を飛ぶ魔法のじゅうたんのよーでもありますです。

2019
01.15

子供の頃は、この看板がホラーでありました。
その頃に較べれば、何億倍もの悪しきことをしているのに、
「何言ってやがる」
と小便をぶっかけたくなるのでありました。

疑問に思うことがございます。
切支丹弾圧で処刑された人々の信心であります。
ホントに神の再来とかを信じて殉教したのであろうか、それが分からないのでありました。

天草四郎だかが立てこもったと言われる原城に行ったとき、城に立てこもった人々の中に、切支丹ではない一般の民衆がいて、彼らは入信していないということで、切支丹から苛酷な弾圧を受けていたと知った時、殉教は後世の作り話ではないかと疑ったものでありました。

人間は、隠れて何かをするのを好む生き物であります。
けれど、イノチまで賭けようとはしないし、秘密のイタズラであることがホトンドではございませんでしょうか。

かつて学生運動が盛んだったころも、多くは流行の一つとして大学にこもってバリケードを作ったわけでして、それは青春の美しい一ページ。ファンタジーでございましたでしょう。

一部は山にアジトを作って、総括など大真面目だった人たちもおいででしたが。

信心しても、「殺すぞ!」と脅されれば、「信じたふりをしていただけですよ」と踏み絵などは朝飯前だったに違いございません。
が、支配者は、「許してはいかん。今後の見せしめとして拷問の上、処刑せよ」と命じたことは想像に難しくはございません。

後になってから信者が「あの方たちは死をも恐れずに殉教したのです」と物語を作ったのではないか。

「死後さばきに会う」
なかなかの名コピーであります。
このほかにも、パクりたくなるフレーズがシリーズであるわけでありまして、そこらへんが基督教の魅力でもありますです。

モラルに反することほど陶酔できることはございませぬ。

死後、「許さぬ」と神様に折檻され、磔にされるのでありましょーか。
「していません、していません」
と否定しても、
「思っただけで罪なのだ」
あの世の刑場に引きずられていく自分を想像し、ちょっとうっとりしてしまうのでありました。