2020
03.19

いつもの春より、今年の春は清らかでございます。
大地が、いや地球が、人間を駆除するために動き出し、透き通った陽光が音もなく白い花に降り注いでいるではありませんか。

県別に眺めますと、
「都会がこわい~」
という県ほど感染者が少なく感じるのは気のせいでありましょーか。文明に汚染されず、春夏秋冬の移り変わりを、そのまま受け入れている地域ほど、地球の怒りに触れていないのかもであります。

が、天網恢恢疎にして漏らさず。天の網は荒くて、その網をくぐり抜けられるように見えるけれど、けっして逃れることは出来ない。

やがて、平和な地域にも鉄槌は振り下ろされることになりましょう。

そのとき。
もしも、自分の最愛のお方が、疫病にかかったときのことを考えてみましょー。あなたはどーするのでありましょうか。

隔離された相手に会いに行くか。そーいうことが愛だと信じるのか。
それとも、愛と疫病とは切り離し、会いに行くことを耐えるのか。

考えてしまうのであります。

愛する人が、重し病に倒れ、臭い息をして、顔色はやつれ、髪は抜け落ち、見るも無残な姿になっていたとしても、「愛しているのだから」と看病するのでありましょーか。自分も同じ病に感染したとしても。

いや、それは愛とはちがう。「愛する人の醜くなった姿を見ることは、相手にとっても苦痛なのではないか」いっそのこと、遠くに去って、相手の回復を待つことこそ、愛ではないのか。

いずれも愛なのかもしれません。どちらも愛ではないのかも。

「あー、良かった」
と、相手が疫病にかかったことを、どこか解放された気持ちで受け止めるお方もいるに違いありません。
「愛に苦しまずにすむ。死んでくれたら、思い出として愛せるから」と。

都心の夜には星が瞬き始めています。
もうライトアップに晒される残酷から、花々は解かれたのでございます。動物園という檻の中に拉致された動物たちも、静寂な夜を、うららかな春の息吹に安らいでいることでありましょう。

疫病をのひろがりを「戦争」と指導者は呼んでおります。
「勝たなくては!」
まだ気づいていないのでありましょうか。

愛の形を純愛とか不倫とか型にはめ、
「不倫は、許せない」
と迫ったとして、「それは配偶者などを傷つける行為だから」とまことしやかに力説し、それはそーだとしても、「では、愛する人が疫病に倒れたなら…」と原点を問われたら、言葉に窮するのではないでしょーか。

皮肉にも美しく咲く春の花たち。美しく咲く花を、マスクをして眺めなければならない人間たち。

浮浪者たちが暴れ出す前に、目を閉じて、自分の心に咲く愛という花の色合いを、見つめ直しても面白うございますです。