2021
08.29

三十代の中頃まで、夏になると山の中の沼でキャンプをしたものであります。
クルマを停めたふもとから、これという登山道はなく、沢伝いに登り、それからは大木などを目印に藪をごぐのでございます。
二時間ほども上り詰めると、不意に視界がひらけ、緑色の草原を見下ろせます。
そこは草原ではなく、周囲の緑色を映した沼面なのでございます。

だから秋は鈍色の空色。しかし、冬はなぜか黒色。

つまり夏だけでなく春夏秋冬、人々に腹が立つと沼にキャンプするのでございました。

沼に注ぎ込むちいさな沢に石でいけすのよーなものを作り、食料を保管いたします。冷水の冷蔵庫であります。あとは国有林の樹木を根元から切り倒し、火をつけますです。樹木一本で三日はもつのであります。
そーして釣り糸を垂れるのでありますです。

そのむかし、一人の男が、桶に鯉を担いで放流してから、野鯉が繁殖したとか。しかし釣れることはほとんどございません。
ただ水面の波紋や映し出された雲や、風が渡ってくると立つ、さざ波を眺めるのみ。

そして夜。

沼エビどもが岸辺に寄ってくるのであります。
懐中電灯で照らしますと、透明なエビが眼球だけ銀色に光るのであります。
そこを手網ですくいあげるのであります。
二三十回も繰り返すと飯盒に一杯になるのであります。

エビたちにも個性がございまして、懐中電灯の光に好奇心を示す数匹のエビがまず、岸の間際まで寄ってきて、そのおくにはエビの大群が控えておるのであります。慎重なエビの数匹はひややかに大群からはなれた深みで目を光らせております。
犠牲となるのが、好奇心に満ちたエビども。
「人間と同じだな」
捕らえられた好奇心のエビはキイキイとなくのでありますが、やがては塩をまぶされ火あぶりの刑に処せられるのであります。

これが貴重なタンパク源。
雨降りなどは、テントの中で、ただエビを食って過ごすしかなくなることもございますです。

ある年の初冬でしたか。
ふもとでは積雪はゼロ。でも登るにつれて雪が深くなりました。膝までの雪をごきながら30キロほどのリュックを担いで登っておりました。
へんな殺気を感じたのであります。
振り向いてもなにもございません。

しかし、木の皮が剥ぎとられている痕跡を、ここかしこに発見いたしました。
「熊だ!」
直感し、引き返しましたです。

熊は縄張りを示すために、可能な限りの高さに爪痕を樹々に残すと聞いたことを思い出したのであります。

それから、翌年も、さらにその翌年も、翌々年も、多忙になり、沼に足を踏み入れておりません。