04.03
モリオカには開運橋という、大袈裟な名前の橋がございます。
駅から繁華街に行くには、その橋を渡り、駅に向かう時にも、その橋を渡りますです。
そこから「二度泣き橋」と異名がつけられているとか。
ーはじめは左遷などでモリオカに流され、己の不幸に泣き、二回目は、都会に帰るとき、モリオカの人情と別れるのに泣くー
などと調子のイイ、手前味噌満載の物語があるそーであります。
バカバカしい話で、私メからすれば、二回目に泣くのは、「やっと泥のよーにしつこいモリオカの連中から離れられる嬉し泣きさ」と解釈しております。
さてさて、モリオカ駅のホームの、この階段。
壁で遮断されております。
跨線橋を解体する準備なのでしょー。
まだ東北新幹線が開通されていない昭和40年代。
東京へ行くには、跨線橋を渡り、この階段をおりて、東北本線に乗ったのであります。
高校時代には、修学旅行は京都でしたが、やはり、この階段をおり、ぞろぞろと列車に乗り込んだのであります。
驚くことに、出発間際に、応援団がやってきて、この階段から、「フレー、フレー」と、壮行歌とか校歌などを声の限りどら声を振り絞るのでありました。
「しょっすー!」
列車が動き出すまで、我々はうつむいていたものであります。
ばかりか、進学で都会に出る卒業生に対しても、同様に応援団が駆けつけて、さいごに、本人の名前を上から下まで高らかに呼び上げるのでございました。
私メは、嘘の出発時刻を告げていましたから、応援団の被ばくを免れましたです。
いやいや、じつは、モリオカから離れるとき、じつに50年も過去でございますが、一人の下級生を待っていたのであります。
とうぜんお女性であります。
きっと、行くがら、見送りさ行くがらと約束していたのでありました。
いまかいまかと階段に目を集中しておりました。
が、発車ベルが鳴っても、彼女の姿はありませんでした。
後日、手紙が届きました。
「お腹が痛くなったので」
が来れなかった理由でありました。
とおい過去の思い出でございますです。