2022
04.21

山里の奥に、このよーな桜が満開なのでありました。

父が死んでから毎月、モリオカに戻ることがならわしになっておりまして、毎年、東京の桜を体験し、そのあとに、もういちど、桜見物をするのであります。

せいいっぱい咲いているのに、眺めているのは老い先短い老人のみ。
それが山桜の宿命かもしれません。

そして、誰にも山桜は咲いているのであります。

が、評価されたくて桜が咲いているわけではありますまい。
ライトアップされた夜桜は、むしろ不自然で哀れではないかと。

音もなくひっそりと咲き、おともなく散りゆくことがしやわせな場合もあるのかもしれませんです。

たとえば九段の桜を、人混みにまじって見物しても、ひどく疲れるだけで、たった一本の桜すら記憶にないことだってございます。
「ああ、まだ七分咲だな」とか「もう桜も終わりだな」
などとかってに、わかったよーに評価されたくもございません。

一分咲だろーと、満開だろーと、雨に濡れよーと、風に散ろうと、いちいち感想されたくはございません。

「山桜よ、おまえはどこの桜より一番きれいだ」
けれど、こう見入ってしまったのが、この桜でございました。
「みてもらいたくて咲く時期を待っていてくれたのか」
とも。
「来年も来て」
桜がそよ風につぶやいたよーでありました。
「いま見ているのだからイイじゃないか。来年なんて考えてはいけない」

そーです。
来年をおもうのは不純。
だいいち次の年など存在するのでありましょーか。
保障はありません。