10.12
ビニールの手袋をはめました。
デンとシンクいっぱいに横たえましたです。
まずは鱗とり。
ふと、中学の頃、友達のサイトーと釣りをしていた時を思い出しました。
「勝負だ!」
とサイトー。
でもよぅ、と私メ。
「勝負といっても、魚は受け身だから、オレだちの方が分がイイんでねべが」
対して、サイトーはこう言いましたです。
「魚は、人間に食われるためにいるんだべじゃ」
その時の、会話が時間から切り取られて、いつも思い出されるのであります。
シンクに横たわっている鮭は、どこで生まれ、どんな海で育ち、そして、どこで、どうやって捕らえられたのであろう、などと包丁をお尻の穴に差し入れながら想像するでした。
そりそりと胸元にそって包丁の刃を滑られていきましたら、紅のイクラがどっさりとこぼれるではありませんか。
いくつもの命の珠が私メを見つめておりますです。
得体のしれない罪悪を感じつつ、用意していたボールに、紅珠をうつすのでした。鮮血が流れます。
ほとんど治っている右足の親指の、痛風がしくっと一瞬間、幻痛いたしましたです。
「人間に食われるためにいるんだべじゃ」
そしたら、亡き祖母の言葉も蘇るのでした。
「人は鬼っ子じゃ、鬼っ子じゃ」
と、釣り上げた、まだ生きている何匹もの小魚の腹に次々とメスをいれながら、台所の土間で、呪文のよーに唱えていた祖母の声でありました。
罪悪感は、ほんとうは罪悪感ではなく、よだれを流しつつ、死体処理をしている自分の鬼の姿なのかもしれません。
解体処理に慣れている自分の鬼の姿でございます。
そして、それはすこし誇らしくもございます。
「ミゴトに三枚におろし終えたぞ」という。
アタマを切り落とし、半分に割りったところで、もはや、鮭は、食い物としての存在に変わるのでございます。
塩をまぶし、グリルで焼いて賞味するだけであります。
鮭の運命を考えたりする不純は、そこにはなく純粋な食欲があるのみ。
あとはイクラの醤油漬けという、無数の命の調理が残されておるのであります。
ちなみに私メの好みは、新鮮なイクラよりも、発酵しはじめた、すこししなびかけたイクラであります。
鮭として生まれなくて良かったのか、人間として生まれて良かったのか。
それは、それぞれなのでありましょー。
「人は鬼っ子じゃ、鬼っ子だでば」