01.12
人間の心には、目に見えないものに対する恐れがあるよーであります。
受験期になると、合格祈願の、画像のよーな風景が神社などで見かけられます。
これを、
「バカだ」
と思うのも、
「きっと叶えてくれる」
と信じるのもご自由でございます。
市街地図を眺めても面白いのであります。
官庁があり、学校があり、病院があり、飲み屋街が並び、パチンコや映画などの遊戯施設があり、ショッピングモールがあって、お寺があります。
たぶん、住民の頭の中がこのよーにできていて、街々が特徴があるのは、地域によって思考回路がすこしずつ異なるからでございましょう。
はじめて訪れる街だというのに、
「あっちは駅だろう」
「こっちがわにはオネェ様のお店が並んでいるに違いない」
この予感がピタリと当たる街があるかと思うと、エロ酒場を求めて向かっても、神社などにたどり着く結果となる街もございます。
おそらく自分の思考回路と共通する住民がいるか否かの違いなのだと思っておりますです。
とはいえ、宇宙開発が進められているこの世界で、いまだに神社でお祈りをしたりするのは、思えば、不思議でございます。
ただ言えることは、
「強い願望は叶えられない」
この運命の原則があるからなのかもしれません。
あまりにも強い願望は、ぎゃくに悪い結果につながったりいたします。
「騙された…」
「期待ハズレだった」
など。
いちど諦めることで、はじめて望みが叶えられるよーであります。
むかしから「人事を尽くして天命を待つ」などと言われておりますが、これは「期待する」ことではなく「いちど諦めること」を言っているのだと私メは解釈していますです。
神社にお祈りする場合も、その気持ちが働いていれば、望みが叶うよーでございます。
探し物や、恋愛なども、いちど「どーせ、だめだよな」と諦めると、向こうから出てくることがホトンドでございますです。
今日、先生からのメールをうけて文具店でペン型のスマートな
消しゴムを購入しました。一度消せば、開運へと繋がるのではと直感したからです。そしてこのブログ、思わず納得したしだいでありまさす。
●十傳より→消しゴム。開運の暗示がしますですね。
小野十傳先生・関西人の云う、人生行き詰まった逆転の発想ですかね?
●十傳より→断易の原則に隠されている神髄のひとつであります。
勉強になりました!
●十傳より→イガッタです。
どーせ、だめだよな、と諦念を持ちつつも、努力の手を止めず方位も使いこなすなんて人生の達人じゃないですか。
●十傳より→極限まで頑張るのは、失敗したとき清々しく諦められるからでございますです。
「諦めが肝心」と申しますし
あまりに強い期待はどんなに誠実な願いでも重々しくなり
清浄な気が薄れてしまうように感じますです。
●十傳より→努力すれば叶うはずだという傲慢さを、運命は嫌うよーであります。
強い願望が叶わないのは、実のところ夢想や理想に近く、実力が伴っていないことが多いのではないでしょうか。
ゆえに、棚ぼた的な幸運にすがって願うのではないかと。
実力をつけたものは、先生のおっしゃる通り、全てを出し切って、一種の諦観の境地にたどり着くのではないかと思います。
閃きも、バックグラウンド的なたくさんの知識が無いと出てきませんし。
●十傳より→仰る通りかもですね。
特に探し物なんかそうですよね
きのうなんかも、ある有名本屋で貰った「開運カレンダー」なんかも
家に来て、どこに置いたかさっぱりわからなくなり
「バッカヤロー、もう探さないぞ」と諦めたところ
筆記具を収納しているトレーの中から出てきました
こっちが探さないと向こうから出てくるようです
そう考えると、何かに似てますね、女の子に
●十傳より→買い物でも、靴を買いに靴屋に行っても気に入ったものがなく、たまたま立ち寄った鞄屋で見つけるとかですね。
今の世の中を観察すると、人間と言うものは何か巨大な一つのシステムを維持し、稼動させるための部品のように見えてしまう時が有ります。
まるで、個人の意思など介在させず、無視するかのように。
そう考えると、恐ろしいものですね。
そして、何とかして自由な意思を得て、護りたいものですね。
●十傳より→障害者はある地球環境で生き残れる力を与えられているのだと思いますです。
画像の松田さんの字がすごく特徴的ですね。
筆跡を見て何となく筆者の性格とか調子とかを想像したりするのですが、松田さんの様な字を書く人の心理がまったく掴めません。
ただ、達筆のお女性はただそれだけで素晴らしいのであります。
●十傳より→その反対は、ガッカリですね、すこしだけ。ホッとも致しますが。
仕事も恋愛も諦めようかしら。
気付けばお寺だらけの地域に住んでいました。
●十傳より→墓の下でなくて、不幸中の幸いでありましてね。