2011
04.24

被災地でわずかにお手伝いをしただけで、気弱になっている私メであります。

瓦礫の撤去をえんえんとしていますと、やりきれなさで、心がすさむようなかんじなのであります。

オッパイを思い浮かべつつお手伝いをすることにいたしました。

画像は被災地から遠い、雫石のあたりから写したものであります。
どうみてもオッパイにみえて仕方ないのであります。
右側が喉のあたり、左側がお腹のあたり。
この雫石の人たちは男女ともむかしからスケベなのでありますが、こういう生活環境に囲まれているためでありましょう。

無残な街、釜石で、この画像を眺めるのは、なんとも心温まる…そうですねぇ、真冬に鍋焼きうどんをすするに等しい至福なのであります。

釜石でも、日向に桜が咲きはじめました。
老木も若い木も、同じように花をたたえておるのであります。
背後には滅んだ街。
しかし、そういう風景を撮影しようという気持ちにならないのであります。

私の指の爪は真っ黒な泥で汚れ、顔もほこりまみれ、背中までガザゴソであります。

ときたま、地震で揺れ、あちこちの建物が風に軋んだような音を立てるのであります。
そのときだけ手を休め、従弟と顔をあわせてうすわらい。

こんなことをしていてどーなるという気持ちになりつつあるのでありました。

「おっぱい、おっぱい」
と、まるで佐渡の金山の人足たちが「馴染みの女にあいてぇなぁ」とはかない夢を語りながら働くように、私もピンクの乳首だの白いオッパイを思い浮かべつつ作業を続けたのでございます。
女たちはおりませんが、もしも女たちが働いていたら、何を思い浮かべるのでありましょうか。

2011
04.23

被災地周辺で耳にするのは、「靴」という単語でありました。

いかに靴が重要なのかは、災害現場にいくとよく分かるのであります。

釘がいたるところに出ていますから、普通の靴では危険であります。

いや、それよりも、
「寝室に靴を用意しておく」
これがポイントのようであります。靴さえあれば逃げだすことも可能なのでございます。
サンダル履きではたとえ津波や地震から一時的に助かっても、孤立した場合、身動きができませぬ。

運は、軍にしんにょう。足がとても大切だとされております。
その足を守り、足の能力をひきだすのが靴であります。

「ウンコはどうしたんだ?」
と自宅の三階に五日間籠城していた従弟に尋ねたところ、
「お尻にビニール袋をあてがってさ、そこにヤルのさ」
とのこと。

これは小学校などで避難所生活をしていた人たちも同様だということであります。

「そしたら、それを外にぶん投げるのか?」
「変わってないね、そんなことをするのは兄さんだけだよ」
ということでありました。
「みんな所定のところに積んでおくんだよ」

釜石にくると立ち寄っていた歓楽街も画像のアリサマ。
この小道の両側にいかがわしい楽しい港町の女たちがプリプリしていたのでありましたが…。

が、新聞の死亡者名簿によると、死者は私のような50代から上の奴ら、つまり老いぼれたり使い物にならなくなったり、そういう足手まといの人々ばかりで、若い奴らはわりあいに助かっているようでありました。

こうなったら復興は高校生のような若者を中心に、夢のような街作りをしてもらいたいのであります。20代も30代も、40代も、高校生のお手伝いをすることが、理想なのではないかと思ったりいたしました。

もう高速道路も、地デジもなにも欲しくはないのであります。ITなんてまったく無用。原発もいりませんです。いままでの文化なんてホントは無駄なものだったのであります。
節電ばかりが目的じゃない薄暗い飲み屋で、ちょっとオブスのネエさんに囲まれていれば、それだけで幸せなのであります。
そしてオネェさんのちいさな足から赤いスカルペッタを脱がせることができたら最高でありますね。

2011
04.22

被災地、釜石からであります。
従弟の家の瓦礫撤去のお手伝いに来たのでありますけれど、あまりの惨状に頭脳は働きを停止してしまったのであります。

街はあれから一か月と11日ほど経っていますが、やっと車が通れる程度に片づけられただけで、かんぜんにゴーストタウンと化しているのでありました。

しかし、まずは立ちションをいたしました。
私の立っている場所で四人の折り重なった死体が発見されたとのこと。

津波は街の中心部をたかさ三メートルを超えて襲ったそうなのであります。

愛とかセックスとか、この自然災害の前ではなんともくだらないことのようにおもわれるのでありました。
愛で悩んでいるならば、この壊滅した街を眺めればたちどころに治るはずであります。

信号もダメになったまま、街は見捨てられているのでございます。「おーい」
と叫ぶと、死んだ者たちが顔をそろえて窓から笑顔で手を振ってくれるような気がするのであります。

大量の死者は街全体を息苦しい空気にさせるのでありました。

従弟は言いました。
「火葬の時なんだけど」
亡くした嫁さんを火葬にふしたときのことをいうのであります。
「火葬の扉が閉まらなくなってお棺が飛び出してきたんだよ。なんど閉めようと係の人がやるんだけと、まだ焼かないでっていうようにお棺が飛び出してくるんだよ」
と。

瓦礫のなかからは誰のものとも知れない写真やそんなものがいくつもいくつもでてくるのであります。

思い出もすべて亡くなってしまうのでございましょうか。

作業の手をやすめ、瓦礫に座り込んでそんな一枚一枚をながめるのでございます。

「ラーメンたべる?」
といわれ、そういえば朝からなにも食っていないことに気づき、車からガスボンベを取り出し飯盒炊爨の真似事をするのであります。

街の中心地もこのような有様であります。津波は、このアーケードより上まで押し寄せたということであります。

生まれて初めて目にした光景であります。
生きて死に、生きて死に、生きて死んでいく。
ただそれだけなのでしょう。

「頑張ろう」という掛け声が、なんと陳腐で軽薄に聞こえることか。
が、それを呟くことも愚かしく、知ったことじゃないと黙々と作業を続けるだけなのでありました。