2011
08.02

心がうつろうのは慣れているのであります。
大好きといった子が、一年もたたないうちに憎しみのメールを出すなど世間ではざら。

しかし、肉体もまたうつろうのであることには、なかなか慣れないものであります。

昨日まで元気だった人が、今朝には死んでしまっているなんてことも世間ではザラなのですが、これが身内であれば、ショックはこたえるのであります。

冬になったら黄色い実をつけるはずの、柚子が道ばたにころがっておりました。
この世に順序などなく、成功するのも死ぬのも、てんでバラバラであります。
落ちていた柚子を拾うのでありました。

ルノアールの描いた光と影がうつろう絵画のように、時間は一瞬として静止することはないのだと、あらためて気づかされるのであります。

いまは一人だけれど、去年の今日は、このカフェで、あの人と笑いあっていたなぁ、なんて、めのまえに広がる池の波紋をながめているようのと同じような気分なのであります。

ずっと仕事をいっしょにしてきた仲間のイヌが死んだのでございます。

それはとても大切にしていましたから、愛犬の死は、悲しくつらく苦しかろうとおもうのですが、いうべき言葉もみつからぬまま、こうしてブログをUPさせているのであります。

肉体は時間に流され、ぶれながら滲んでいるのでしょうか。
掴んだとおもっても、手にはなにも残っていないのであります。
その手も、見る間に皮膚が老いさらばえ、風化し骨が残り、その骨も崩れてチリとなって吹き飛ばされるのでありましょうか。

それであっても、本当は実存しなくても、錯覚ではあっても、そこにいる、いっしょいるという一瞬はとても大切なものでありますです。
その大切さを忘れたわけではないのに、冷たく接することの多い日々なのであります。