01.08
とくに愛で鯛ことがあったわけではありません。
魚屋に、おおっという、赤ナマコがあっただけの話であります。
そしてとなりに鯛がならんでいただけであります。
「今夜は、これでイッパイいけるな」
とカラダが求めたのかもしれません。
観察すれば、まだまだあったのでありましょう。
うるめイワシだとか、金目鯛とか、ハマグリの良いヤツもあったように記憶しております。
が、今日は、赤ナマコと鯛が目に飛び込んできて、カラダが反応したのであります。
出会いとは、そういうものではないでしょうか。
「なんで、また選びに選んでこんな人を」
と、皆様だって、恋の相手選びに、周囲から呆れかえられたことがあったはずですよね。
理想的な相手は誰なのか、ちゃんと分かっているのに、カラダがいや、心も感応しないということが。
自分の心などないかもしれませんです。
あったとしても、心は自分の体内には住んでいないのだ、と思うのであります。
心は、自分と相手の間にあるような気がいたします。
自分のカラダから心が飛び出す時の、焦りにも似た痛みと、相手の心と溶けてしまうような浮遊感は、心というものの正体を語っているような気がしてなりません。
死魚にワサビと醤油をつけて口に運びつつ、「ああ、やはり今宵の自分はこの味を求めていたのだ」
と、ぬめった味覚にやすらかな気持ちになるのでありました。
小動物は、捕獲と同時に苦しまずに死ねるようにできていると、ある獣医は語っていました。ネズミは鷲の爪にかけられると瞬時に死ぬそうであります。
人間だけが死の苦しみにもがくのだとか。
「いっしょになれないけれど、死ぬまで好きでいるからね」
とペアの珈琲カップを選びながら
「でも忘れたほうがいいよね」
と呟いた子がおりましたです。
忘れないと言われるより、「忘れてみせるね」と握手された瞬間、きっと心と心はひとつに結晶されたみたいでした。
「じゃあ、またな」
別れても、別れなくても、そこで恋は終わったと悟ったような気がしたことを思い出しました。
なぜナマコを食いながら、そんな過去をふと思い出したかはわかりません。心の回線の謎なのでありましょう。