2012
02.18

貝のワイン蒸しを楽しんでいたのでありました。
ところが、貝のなかに、ヤドカリが紛れ込んでおりまして、拾い上げてみました画像がコレであります。

ヤドカリにとっては迷惑なことでありましたでしょう。

日ごろ、漁師たちを眺めつつ、自分がアサリにならないで良かったと神に感謝したかどうかは分かりませんが、食卓にのることはあるまいと無関心でいたはずであります。

ところが、運命がどのように作用したのか、漁師のあさった網にかかり、あれよあれよという間に、かような最期になったというわけであります。

ボールにとりだされ塩水をはられ、さかんに塩を吹きだしているアサリを横目に、それでもヤドカリは「おいらはお前たちとは違うもんね。きっと助かるもんね」と安心していたことでありましょう。

ワインをそそがれ「あっちちち」となってはじめて「何故だ!」と慌てたことでありましょう。

震災から一年が過ぎようとしておりますです。

いろいろと英雄的な行動をとり、戻らぬ人々を思い出しては、惜しむ話も耳にいたします。
さいごまで避難誘導をしていた人、家に残された老人を助けに戻った人、防波堤の水門を閉じた人…。
みんな自分が死ぬとは思ってもみなかったはずであります。

いえいえ津波だけではありませぬ。
夕食はカレーにしてくれと言葉をのこして通勤途中で交通事故で亡くなる人だっているわけであります。

知り合いにも、アメリカ出張のために妻に成田で見送られ、「土産を買ってくるから」と旅立った、その一週間後に、妻が急死されたという人もおりますです。

どこでどういう運命が待ちうけているのか。
大昔から、人々は運命にもてあそばれているのであります。

どんなに便利な世の中になっても、ずっと昔の故人の言葉が心を打つのですから、人間の幸せというものは変わっておらぬようでもあります。

運命が変化するときは、ちいさな警告をならすのも、占いの仕事をしてみて気がついたひとつであります。
多くの人たちが見過ごしてきた、科学的でも統計的でもない、理屈では解けない警告であります。

もしかするとヤドカリの死も、私メへの警告なのかもしれない、いや警告そのものなのだと、ふと立ち止まって危険をチェックしているのでありました。