2012
05.07

昨秋に植えた、ミカンの苗木が成長し、おさない乳首のような蕾をもっていたのでありました。
なかなか土に根がはれず、いちじは枯れたようになっておりました。
そこで、根元を踏んづけてやったのであります。
樹木はしょうしょう傷めつけることで生命力が目覚めるようなのであります。

そうして、ぽっかりとした蕾を愛でることは、しあわせの、もうひとつの形ではないかなどと哲学するのでありました。

お金とか名声とか、占いでは、とくに東洋占術においては、この二つを柱として判断するのでありますけれど、どーでもいい花の蕾が自分の庭にふいているのもまた、いいものであります。

結婚したお女性が肉のあつい背中をかがめて、蕾をもった樹木を眺めるのは、遠目に見て、どこか色っぽいのであります。

しかし、であります。

独身のお女性が、花を眺めて幸せを感じるのは、ちと悲劇的というか、悲壮とまではいきませぬが、憐憫を感じてしまうのは私メの差別的な見方でありましょうか。

「ヒトリシズカが咲いているね。この花大好きなの」
と草むらにかくれるように咲く花をかがんで眺められても、男は、そうだね、すごいねと大喜びで共感することはできませぬ。
「春も終わりだね」
と、花ではなく、季節の移り変わりのような全体を感じるのが男かもしれませぬ。
そんなことよりホテルに急ごうよ、と男女の肉の花をたしかめたくて、野に咲く花に目を止める余裕などないのであります。

そういう男どもも、わが身が枯れてきて、はじめて花の存在を意識するのでありましょう。

紫陽花も雨の季節をまっているようです。
次の季節、次の季節と、花々は咲いては枯れて、季節はめぐるわけでありますが、そういう花の運命を身近に感じていると、なぜか縁遠くなるようであります。
恋はいずれ散っていくものという意識が心の深部に刷り込まれるからなのでありましょうか。

「お金持ちと結婚したい」
と現実的な価値観をいだくお女性の方が、充実した恋愛をする傾向が強いようであります。

お金という肥料、世間体に恥ずかしくないという環境…。花を愛でるのではなく、自分自身を花にしようとする無意識が、恋を引き寄せるのではないかとも思われるのでございます。

それでも、花に囲まれるという期待は、もうひとつの幸せを思わずにはいられませぬ。