09.29
小岩井牧場のどんつきに網張温泉があるのであります。
スキー場として地元では親しまれているのでありますが、いまの時期は岩手山の登山道のひとつとして、リフトが運転されているのでございます。
老母をつれて、ではこの世の最後のパラノマの見納めにと、そのリフトをつかって登ったのでありました。
中腹のロッジは次の季節を待っているのでありました。
風は西から東へと、前髪を煽るのでございます。
あまい秋の大地を嗅いでいますと、自分が疲れていたことが分かったりいたします。
人を傷つけていたけれど、じつは自分もまた傷ついていたらしいのでありました。
草を踏みつつ、そのなんと懐かしい弾力であることか。
ちいさな花々は待っていたかのように迎えてくれるのでありました。
雪のない季節に、ここに立つのは、何十年ぶりでありましょうか。
いや、スキーをやめて、すでに20年が経過しておりますです。
見納めは、もしかすると私メのほうかもしれないのでありました。
さよならだけが人生よ、という歌だったかがありましたが、たしかに、いくつものサヨナラを繰り返しておりますですね。
ただいま、と語りかけるには、まだいささか照れくさいし、かといって、こんにちは、でもありません。
サヨナラの数だけ出会いがあるという迷信をまともに受け止めるには年をくいすぎてもおります。
二基のリフトを乗り継いで、ここは兎平でございます。
私メの後ろを、老母はおぼつかない足取りでついてくるのでありました。
ブナの木で守られた山は、風すらも止まっているのでございます。
かつて、ちいさなロッジのわきにスキー板をさして、寒さをさけたものでしたが、いまは廃墟同然。
仲間の歓声が、記憶からよみがえることもございません。
帰らざる日々なのでありますです。
目をつぶっていても、このゲレンデの状態、どこがアイスバーンで、どこになにがあるかまで熟知していたはずでありましたが、雪がなくては、かいもく見当もつかないのでありました。
仲間たちとの会話のひとつも思いだけませぬ。
そういう楽しいことが、果たして存在したのかすら、嘘のようなのでありました。
訣別の言葉を受け取っても、さほど衝撃でもない恋の終わりのようであります。
とっくに濁情は滅んでいたことを、いまさらのように確認するのみで、意味のないため息をくりかえすような気分なのでありました。
リンドウが群生し、すすきがなびき、あとはリフトのうごく音だけ。
が、カラダのなかの水が、入れ替わったような新鮮さだけが残っているのでした。
「腹へったね」
「なに食べるえん?」
たわいのない会話も、やかては忘れていくのでありましょう。