2013
02.07

机の引き出しからテレホンカードが出てきたのであります。
1980年代に私メが作った100枚のうちの数枚でありました。
名刺代わりに作った、魔除けのデザインが施されております。
カラーは高くついたので、白黒で、人に渡す時にチョコッと色を塗ったりしたことを覚えておりまです。

が、もはや時代遅れの記念品であります。

画像のような公衆電話はほとんど見かけませぬ。
震災の時に、活躍したそうでありますが、いまでは一日に何人が使うのでありましょうか。

カード式の公衆電話が設置されたときは、私メは30代の始め。
便利なモノがてきたものだと驚愕したことを覚えておりますです。

そのあと、ポケベルが登場し、ダイヤルQ2の流行となりましたですね。
ピッチ、そして携帯電話、モバイルと移ったのであります。

で、すこしは幸せになったのでありましょうか。

個人とのお喋りの道具だった電話は、広く情報を得るという便利な道具になったわけでありますが、私メに限っていえば、むしろ煩わしさが増えたような気がしてなりませんです。

月々の使用料もバカにならず、解約しようとすると、当然だと言うかのように高い違約金を請求されるようであります。

幸せとか不幸せは、道具では決まらないようであります。
官能にうちふるえ、「コレなしでは生きてはいけない」と涙を流しても、感情のゆき違いから、バカにあっさりと別れられるように。
たくさんの人に連絡をするのに、特定の人にだけは怖くて電話もメールもできないように。
オートバイとギターと踊りができればモテるのだと信じていた16歳の頃のように。

ストレスは内部へと入り、DVとなって爆発するのでありましょうか。
「久美ちゃんのことだけど」
と、先日、電話があった飲み屋のママからまた連絡があり、クラスメイトの元亭主の生年月日をきいて
「なるほど…」と感心したのでありました。
『偏財、正財のない男命は内面が悪し』だったからであります。

このような気持ちの悪い時代には、命式の特徴がつよくあらわれるようであるのでありますです。