03.01
はたして自分を待っていてくれる者など、いるのだろうか…。と男はときどき思うのであります。
ロメオとジョルノ。そしてベッドのしたのナッツは、私メの帰りを待っていてくれる、と確実に思えるのであります。
幼い頃に、父も母も外出して不在だった暗い家は、じつに開放的で自由でありました。「ただいま」と帰ってくると、とたんに気持ちが重くなるのでありました。
「寂しがったえん?」
の心配言葉はトンチンカンでありました。
電車で帰宅するオヤジどものうち、本当に帰宅を歓迎してくれる家族は幾人いるか、いや皆無ではあるまいかと、つい「おいおい、誰もお前のことなどまってないよ」と声をかけたくなるのであります。
いや、知っているのであります。
ロメオたちだって、ただ餌を待っていることくらい承知しておりますです。
駐車場では自転車が持ち主を待っているように見えますですが、これは無機質のモノ。
いつから待たれなくなったのであろうかと、ふと振り返りますが、子供の頃は親に待たれ、成年してからはお女性に待たれたことは記憶するのですけれど、それくらいなモノであります。
あの世は待っていてくれるのでありましょうか。
しかたなく受け入れる程度のようにしか思えませんです。
そして、つい他人と比べるのでありました。
「あやつは、どーだ。誰も待ってはいまい」
「あのお女性だとて孤独な面をしている」
そうして、自分はそれほど一人ではないと思いたがるのであります。
「神様などに手を合わせても、神様はおまえさんのことなどにかまっていられないとさ」
と教会をのぞいて、げらげらと喉を空にさらして笑いたくなるのでありました。
「あなたは一人ではないだと!」
震災当時、スポーツ選手がガキのくせに、分かったようなことを新聞などで訴えておりましたですねぇ。
あれには腹が立ちましたが、、ははぁ、いま流行しつつある襲撃事件の英雄の心は、こうやって育まれるのでありましょう。
駐輪場では、誰も待ってはいない人を待つ自転車が整然と並んでいるのでありました。
外で認められない者たちが、この自転車で帰宅し、「おれはよ」「わたしはねぇ」と、現実には起きなかった架空の話をして、自分が自分であることをたもつのでありましょう。
その嘘を話しかけられるものは家族という有機物であったり鏡という非有機物であることもあるのでありましょう。
誰ひとり、相手の妄想話など聞いてはおりませぬ。
犬だけがなんとなく慰めてくれているような目で見いるのでありますですね。