2013
04.05

つい先日まで春のかおりを漂わせていた梅は、ちいさな実をつけているのであります。

かりに結婚が恋の結実だとすれば、それ以外の濁情は、別れというサダメから逃れられませぬ。
生涯に経験する濁情の数は、そこそれぞれでありましょう。
けれど、そのほとんどは別れという運命を刻印されているわけであります。

風に吹かれて散るような濁情ならば、美しくもございましょう。
気持ちが通じなくなったから別離するという単純な関係は、美しい思い出にもなり得ます。

ところが年齢を重ねると、性格的にはソリがあわないのに、肉体的に絶妙な相性というものを体験してしまうのでございます。

心では相手を否定しながら、おセックスでは尾骶骨がむず痒くなるほどの悦楽を共有し合う関係は少なくないのでございますです。
別れても逢い、逢えば激しい陶酔に爛れ、また別れ、しかし、逢わずにはいられなくなるという関係でございますです。

「わたしを振って…!」
ついには、こういう悲鳴を上げてしまうのであります。

自分からは別れきれないための捨て身なのでありましょう。

嫌いになるために、憎むために、相手の落ち度を無理やり拾い集めては、怒りの炎を燃やすようになるのかもしれませんです。

濁情は、いつかは決別しなければならない傾斜したステージとも考えられます。

結婚という社会的に結ばれた関係だとしても、離婚や死別など、やはり別離というサダメは見えてはおりますけれど、その別離に至るまでの精神的な安心感は、濁情とは比べ物にならないものであるはずであります。

ひとつの濁情から逃れるために、別の濁情に身を投じても、それは逆効果だったりいたしますです。

散る花は、散っても花なのであります。
それが濁情者にとって、ゆいいつの慰めにもならい慰めの報酬とも言えるのかもでありますです。