2014
04.05

こころなしか、今年の桜の花びらの色が薄いようであります。

愛でる時期を逃したこともありましょうが、いつになく寂しい色なのでございますです。

人相で美人から生まれた子どもは、どことなく華がないと言われておりますですが、桜もまた、美味しいさくらんぼうはソメイヨシノではないところが、易者の興味を惹くのでありました。

運命学の目的は、人の幸福追求であることが究極でありまして、しかし、それは宗教でいう幸福ではありませぬ。

宗教は、それが仏教であれ、耶蘇であれ、諦観に基づいておりますです。
「足ることを知れ」というわけで、あらゆる欲望からの解脱を、諦観によって為さしめるわけであります。

貧乏も天のご意志、病気も、死も神のご意志と諦めるのでございます。

が、運命学の幸福論はちと異なりますです。
四柱推命も奇門遁甲も、それから色々な占いも、その占いを用いることによって幸福を現実のものにするのでございます。

病気になり、「これも天の定め」と諦めるのはご本人の勝手でありますですが、病気が家族や周囲に広がっても、それが果たしてしやわせなのかどうか。
運命学は、この諦観に対して敢然と背くのでございますです。

満開になる種子が日陰で芽を出して、それでも「与えられた場所で咲きなさい」と諭されても諦められるでしょうか。
自分は「良きお言葉だ」と感動し、しょぼい花を咲かせ自己満足に浸ったとしても、次の花も、また次の次の年に咲く花も、与えられた場所で咲かなければならないという、その子孫に対する責任はどーなるのでありましょうか。

財産はお金ではなく、自分のカラダなのだということも運命学の基本であります。
浪費とは自分のカラダを粗末にすること。ソレなのであります。
「あなたは浪費家の相が出ています」と言われたら、それはお金を無駄に使うことではありませぬ。お金を増やすには、チャンス時にお金を無駄に使うことが条件なのでありますから、お金の無駄遣いは、お金持ちになるための準備とも申せましょう。
本当の意味の浪費は、カラダを粗末にすることを指すのであります。

でありますから、満開に咲く花の種子を持ちながら、悪い環境で諦めるのは、これは悪に近い浪費でございます。

ちと書きすぎましたですね。

明日から、奇門遁甲春組のスタート。
頭の中が、講義に備えて運命学に染まっているようでございます。