2014
07.03
07.03
モノの本によりますと、「易」という文字はトカゲに由来しているとか。
日月という変化がトカゲらしいとかであります。
嘘でありましょう。
コジツケなんだと読んでいてバカらしくなりましたです。
占いは出発点が仮定でありますが、自然科学だとて仮定と検証なのでありますから、それはどっちもどっち。
私メのように朝から晩まで占いだけにどっぷりとつかっておりますと、世の中の嘘とか、そういうものが見えてきてウンザリするところがあるのであります。
先日のように競馬で大ハズレしたときは、俄然として好奇心が刺激されるのですけれど、人と会話していると「また、自分は同じところを堂々巡りしているな」と自己嫌悪に苛まれたりいたしますです。
9月に改訂版が予定されている「六壬」という占い。この命理は、人生を三つに分割して判断するのでありますが、これは日々の生活にも適応できるのであります。
つまり、人は同じ選択をしがちなのであります。
恋愛でも、いつも同じパターンに陥りがちなのは、相手に原因があるのではなく、自分の選択にあるのであります。
「この会話は、いつか前の恋人の時にも話したな」
という、いつか来た道でありますでしょう。
人は、自分から脱皮することは出来ないのでありましょうか。
占いを稼業としていますと、他人の微妙な仕草や趣向から、「ははーん、この人はこういうことになるぞ」と見えてきてしまいますです。
犬を見て飼い主が分かるように。
人は変化はいたしますが、それは老いたという外見だけのことかもでありますですよ。
などと、占いを突っぱねてはみても、翌朝には、占いと向き合い、「ハズれたのはどういうわけだ」なんて、ハズレ記録ノートに向き合うのでありますです。
余人が見れば、完全に発狂しているはずでございますです。