2015
01.26

はじめて東京のお女性を抱いたのはいつのことでしたか…。
地方出身の男にとって都会のお女性と交わることは大きな夢なのでありました。
「ヤッたぞ!」
と飛び上るほど嬉しいものなのであります。

が、失望したのは、東京のお女性も嫉妬するのか…この不思議さでありました。
もっとクールでさばけたものかと思いきや、ウヘッと放屁をして逃げ出したいほどの粘着性だったことを記憶しておりますです。
たまたま彼女がそうだったわけではなく、その後の何人もでありました。

郷里の岩手山より富士山だと勇んで登ったら、富士山は砂礫の山であり、遠くからは美人だけれど心はヒドイお女性のようでありました。

嫉妬心には驚いたものの、しかしやはり都会のお女性でありまして、どことなく洗練はされておるのでございます。
むろんそうではないお女性も多々見られはいたしますけれど。

では郷里のお女性はいかがかと申しましても、それは千差万別であることは勿論なのであります。けれど共通するものがございます。

なかなかの乱れっぷり。
おとなしそうでいて、いちどそうなると遠吠えのようなお声で快楽を告げるのでありますです。
「こうさねば、東京の女の人に負げるおん」とでもいうようにでございます。

二つのコニーデ型火山を眺めつつ、どちらもイイのであったなぁと思い出だしてはニタリ。

色情人相占いは、こういう地方性も踏まえて考慮することが大切でありましょう。どこで生まれ育ったか。太陽の光をさんさんと浴びて育ったのか、それとも一年の半分は曇天だったのか。
陰毛の毛質が同じであつたも、それぞれに異なった判断をしなければ本質的な部分を見落とすのであります。

色情は、その人の幸不幸に直接的に影響いたします。
スケベさを恥とするのか、魅力とするのか、そういうことなのであります。

ふるさとの山はありがたきかなと啄木は読みましたが、死んだ伯母の病院のある渋民村、それは啄木の郷里でありますが、そこに立つと、ふるさとの山というのは岩手山ではなく、じつは姫神山なのだと感じるのでございます。

色情に支配されながら、色情とは別のところに運命の契りがあるように。