2015
03.04

ふと
「泥鰌をくいたい!」
と衝動につらぬかれ、PCを叩き消し、浅草へと赴いたのでございます。

浅草も京都とおなじく中国人どもが我が物顔にのしあるいているのでありました。

言っておかなくてもいいのでありますが、政府がどんなに中国との関係を改善しようとも、私メにはそういう気持ちはもうとうございませぬ。
たしかに、数年前に、ぼったくりバーで中国女に救われた恩はあるにはあったにせよでございます。
キライなのではなく、肚のそこから軽蔑しているからであります。軽蔑する根拠はありませぬが、人というものは何事も感情が先立ち、そのあとで理論をくっつけて安心する生き物。

その感情は予感やカンなどの未来予知から来ているのかもしれませぬ。
感情は大切なのであります。

「泥鰌をくいたい!」
の衝動も、その何らかの予兆だったのかもしれませぬ。

とにかく、ヤセ泥鰌をいれた桶を店先に見つけ、その店ののれんをくぐたのでありました。

しばらくして、柳川鍋が出てまいりました。

味は私メがこしらえた方が美味ですが、泥鰌にかわりはございませぬ。
粉山椒をたっぷりとふりかけて食べたのでありました。
「ふーむ、泥鰌千匹か…」
など意味不明な四文字熟語が浮かびましたから、満足したのでございましょう。

いつのまにか浅草は中国だけでなく東南アジアの住処になりつつある模様でありました。
駅の構内もスラム化がはじまっておりますです。
が、満腹の私メはやさしくおだやかに、
「そこをどいて改札にいれてくれないか、このドロボーどもめが」
大丈夫、どーせ日本語は通じませぬ。

泥鰌千匹か、ふたたび電車の中で、内頬にささった泥鰌の小骨を舌でせせりつつ、その熟語の意味を掘り下げるのでありました。