2015
03.17

春の足音におびえますです。
希望とか前進の言葉とともに恐ろしいのであります。

が、庭では蕾が色づき、取り返しのつかない季節へと変わろうとして、それを止める手立てはなく、まるで悪夢の中にいるようでございます。

陰鬱な平和な乳房に包まれているような冬の日は滅びていくのでございます。

それでも春ですね、イイですねと会話を交わすのは、否定しても春の到来をかわすことが出来ないからでありましょう。

赤ん坊の誕生を祝うことにも似ております。

「どーして生まれたのよ、こんな地獄に」
と、本当のことを申しても仕方ないから祝うのでございましょう。

朝から自分とは関係のないニュースを新聞やテレビで見せられ、本音を言葉にすれば差別用語だとバッシングに遭い、面白くもないお笑いに笑わなければ異常者だと精神病院に連れていかれ、気が付くと戦場に立たされて「死ね死ね、お国のためだ」などと脅されることになるのでありましょうか。

刻一刻と春の軍靴が聞こえてまいります。
「希望と言え」
「夢を持て」
「お前の生きがいは何なのだ」
と怒られそうでございます。

自分の人生をどー使おうが自由ではないか。言いたいことを言って何が悪い。心の傷だと? そんなものがどこにあるのだ。ただ言葉につけこんで賠償金が欲しいだけではないのか。

やはり「自由、健康、お金」でございますよ。
この三つの量は個人差があり、それぞれに釣りあっていなければなりませぬ。
すべては運の広さ。
お金ばかりを得ても、自由と健康が害されてはいけませぬ。

運の領域は、運命学を知ることで広げることが可能でありますから大丈夫であります。

ああ、それにしてもまだ春になるのは早すぎます。
11月のあの頃が懐かしいのであります。

こうなったら早く秋深くなる季節を心待ちにするのみでございましょうか。