2015
11.20

実家は枯葉に埋まって棺桶のようでございました。
丸一日かけて枯葉をレーキで集めてゴミ袋に。
夏のあいだ、あれほど茂っていた葉はすべて枯れ散り、木々は丸裸。

それを私メが拾い集める姿は、どっちが枯葉なのか定かではなくなるのでありましょう。

ゴミ袋には、私メの頭部や臀部が詰められているような気もしないではありませぬ。

日干が根のない甲木のお方は、勢力のあるうちはうっそうと葉をつけて実力以上に威張っておりますが、人生の秋を迎えると、「こんなに細い枝であったのか」と見る者を切なくさせるものでありますが、まさに葉を失った樹木は寒々と落日に照らされておりました。
コレ、四柱推命の調候用神法の解釈の基本のひとつであります。

午後3時ともなると日は落ちて、お女性の燃えた肌の温度のお酒が恋しくなりますです。
台所の板の間に岩手の銘酒、鷲の尾が私メを待っておることが心の救いでありました。

が、調候用神法をバカの丸おぼえにしてはなりませぬ。
そこに通変という臨機応変の機転を利かせてはじめて判断が成立するのであります。
秋だから、すべて死に絶える。これから冬を迎えるしかない。
その通りでありますけれど、小春日和というものが人生にもございます。
老体となっても、ときとして激しく女体を欲するように。老婆となり果てても若い男の匂いに血潮が復活することだってあるのでございますから。
枯れ庭の一隅に、白バラがひっそりと息づいておりました。

真冬まで、あといかほどでしょう。
それでも白バラが花をつけていることを未練がましいと思う方がいるかもしれませぬ。

かまうものですか。
他人にどう思われようと、モラルに背こうが、白バラが咲いていることはれっきとした事実であります。

咲く時期はそれぞれ。
また何度でも咲けるのであります。

暗国の未来は迫っております。
「マイナンバーがきたぁ」
と老母が嘆いております。

紅き唇はとうにあせたとしても、黒髪が霜に染まろうと、それはそれで趣のあるお姿カモしれませぬ。