2016
02.25

キッチンの隅に切り花を移した瞬間に、脳みその奥をつつくものがございました。

断易を講義して四年目。
その技術をお伝えしてまいりましたが、何かが足りないよーな気がしてなりませんでした。

足りないのではなく、芯が抜けているよーな。
たとえば、それはお女性に愛を囁く時に、言葉だけで魂がごっそりと抜け落ちているよーな。

奇門遁甲や四柱推命にはあって、断易に欠けているもの。
それは「止観」ではないかと。

何のために断易を使うのか。
その根本の心の基準でございます。

当てれば十分ではないかと言われれば、それはそれでイイのでございますが、しかし、難解の卦を前にした時、「この卦は違うのではないか」という迷いが生じますです。

また、同じ事象を複数人が占った時に、断易は各人で異なる卦を出すでありましょう。「変ではないか」と迷宮に入り込み、「自分は断易に向いていない。そもそも断易などというものはマヤカシではないか」と断易を捨ててしまう結果になるでありましょう。

いまだ「断易止観」ということを検討し、ひとつの見解として提示した書物はございませぬ。
菊池流断易を踏襲しつつ、諸口流をも取り入れ、さらにまったく新しい方法を見つけてはおりますけれど、しかし、やはり方法論に過ぎませぬ。

キッチンのお花に目をとめたまま、私メはしばらく脳みその声を聞いておりました。