2016
04.27

時を逃したように、葉桜の間から桜が咲いておりました。

関東はもう何週間も前に散り終えているのに、この桜はどーしたというのでありましょうか。

孤独な桜、孤桜であります。

季節はずれの観光地を訪れたような、奇妙な解放感がございます。

老いらくの恋という感情みたいなのであります。

人にも咲く時というものがあるのでありましょう。
60才過ぎに「やるぞ!」と拳を高々とかかげるのはオショシイ仕儀でありますけれど、それでも時を得れば、トントン拍子に成功を掴み取る奇跡を、私メは仕事柄、何度か見ておりますです。

オバちゃんが恋に狂う切ない美しさも、また格別。干上がったはずの生理が恋によってふたたび身に訪れることも女体の神秘なのでございます。恋をして背中のぜい肉を燃やすためにジムに通う麗しき御心もけなげな美しさと申せましょう。
そうしてインプラントの清潔な歯を笑顔からこぼれさせ、トワレをブランドのファッションからただよわせるとなると、これは若いお女性には立ち向かえないほどの妖艶さと化しますです。

満開の桜には個性はございません。
無情の美なのであります。
ところが遅咲きの桜は、廃墟の花でございます。
いちど目にしてしまうと優しい心根に戻るのであります。

四柱推命では三十代から五十代の大運がとても大事であり、この三十年間が人生のキモとなるのであります。

多くは、良い運は、その三十年間を逸れてしまうのです。
それでも五十才からの幸運でも遅いということはございませぬ。
いや、大運から見放されたならば、自分で良き大運を作ればイイのであります。

ここに推命学の妙味があります。

そんな哲学を咲き遅れた桜花は語っているのでありましょうか。