2017
04.20

墓参りなのでありました。
四角い切り石に花を手向け、線香に火をともして、手を合わせるだけのことでありますが、そんな墓石が年々増えるのは、そういう年齢なのかもしれません。

最後の友達の墓石のひび割れに手を当てながら、私メは別のお女性を考えておりました。
「私の方が先だよね」
「いやいや、オレのほうが先に死ぬ」

おそらく、墓の下の骨と、彼女の見事な鎖骨と、骨つながりでの連想に違いありますまい。

その鎖骨に手を伸ばし、小指の腹でなぞりたい気持ちになったとき、そこはうす暗い料理屋で、そういえば料理人が北海島蝦をザルに入れて、「これです」などと自慢そうに持ってきたことを記憶しております。
と、その時、ハプニングが発生いたしました。

蝦が突如としてザルから躍り出で、腹を膨らましたとみせたと同時に、彼女めがけて水を放射したのでございます。右目に命中いたしました。
顔射ならぬ眼射でありました。

撃たれた彼女は一本の木が倒れるが如く、シートに倒れたのでありました。瞬時の出来事でございました。何者かが私メたちの関係を懲らしめようとしているかのよーに。

しばしして、
「のろい?」
「誰の…?」
ふたりとも言葉にはいたしませんでした。鎖骨が蝦の放った海水で濡れておるのでございました。
呪いや祟りに関する言葉は、禁句でございました。
その言葉を、使えば、滅びる関係だったからでございましょーか。
濡れた鎖骨は花びらを散らした氷柱のように、いやに誇らしげで「だからどうなの」と強がっておいででありました。

友達の墓石は、以前に当ブログでUPしましたが、やはりひび割れ、どころか今度は「福」にあたるところが欠けておりました。
しかも墓石全体が曇っておるのでございます。

モリオカの桜は音もなくほころび三分咲きで街をしずかに飾っております。

祟りなどではない。欠けた墓石を、取り返しのつかないことをしでかしてしまった時みたいに、指先でほじくるよーに撫でつつ、そんなことではないのだと自分に言い聞かせるのでございました。「あれは自分の願望だったのだ」とハンカチで右目を抑えたお女性を想い出すのでございました。「エビなど食っている段階ではなかったのだ」と。

だって、この世で、解明できないものは全体の30パーセントであり、うち25パーセントは占いで対処可能であり、残る5パーセントが呪いや祟りとかの分野に過ぎないのだからと。

いろいろな支障が発生するのは、そこに踏みとどまらず歩き出すべき時に踏みとどまっていることに対する、運命からの警鐘であることがほとんどなのであります。