2019
05.23

生年月日から、その人の運命を読みとくことが、私メの仕事であります。

同じ生年月日でも、まったく異なる生き方をなさっているのは当然であります。
いまさら、
「同じ生年月日なら、同じ人生だろう」
と占いを否定する意見に対して、反論しようとは思いませんです。

同じ種子でも、環境によっては大輪の花を咲かせたり、逆に、蕾すら芽生えずに枯れる植物がいるわけでして、しかし、もしも、あなたが別の人生を歩んでいたなら…と思うことはきっとあったはずで、いまなお、違う自分を空想されていることでありましょう。

私メも同様でありまして、命式に根のない偏官を二つも持ち合わせております。
出世には遠い運勢でして、けれど、官殺が月干にあるということは、そういう社会的な地位から頭が切り離せない人種ともいえますです。
易者となり果てた現在では、その官殺は、形だけの、上辺だけの礼儀正しさとして出ていて、かなりの忍耐力と冷静さを使わないと、犯罪者となりかねないことを、私メは知っております。

もしも、私メが弁護士や医者など、社会的な資格を持っていたならばどんな人生だったか。
おそらく違法行為をして、資格を剥奪されていたことは火を見るよりあきらか。

であれば、現在の生き方が、まだマシだったかもしれません。

どこで、どう変わるか。人生は選択で決まるワケであります。
「あのとき、こうしていたら」
「こうしなかったら」
と、無数の選択が、いまの自分の運命の旋律を決め、そして生年月日の持つ、生まれ持っての癖、習性によって運命のリズムが決定されているのであります。

「若草物語」という古い映画を何十年かぶりで鑑賞しました。
少年の私メは、現在の私メになろうとは露知らず、そもそも60代の自分が存在していることなど考えもしなかったことでありましょう。

そーして、数々の選択と習性を経たふたりが、出逢ってしまうということも、とても奇妙であります。
中学や高校で出逢うふたり。社会人になってから出会うふたり。年の差が開きすぎたふたり。結婚してしまってから出逢うふたり。
飲み屋で交錯するふたり。職場で巡り会うふたり。趣味を通じて、通勤電車で、高速のパーキングエリアで、旅先で出逢うふたり。

別の人生を歩んでいたならば、その出逢いはなかった。でも、違う人との出逢いはあったはずであり、人混みの中で、
「…!」
「!」
と思わずお互いに振り返りあう、その人と、じつは他の選択の人生においては出逢うはずであったかもしれませんです。その人も同じでありましょう。

が、出逢ったからどうなる。出逢わなかったからと言ってどーなる。

自分の運命の旋律とリズムに、出会いと言う現象の音階や和音が加わって運命が立体的に交響するのでありましょーか。

生年月日のサインは、見ていて飽きることのない魅力に溢れているのであります。