2019
09.08

東西線の中で思わず、
カシャッ!
してしまいましたです。

シャッター音を聞いた隣のお女性が座席を立ち去りましたです。

しかし、撮らずにはおられませんでした。

赤い造花。
赤い造花を踏みつける靴。
赤い造花を踏みつける靴をはいた男。
赤い造花を踏みつける靴をはいた男を撮る私メ。

私メも、知らずに、このよーにして何かを踏みつけ、傷つけているのではないか。
毎日、毎日、誰かを傷つけているのではないか。

傷つけよーとして傷つけているのではなく、傷つけているとは知らずに誰かを傷つけていることは、おそらく間違いない。

誰かではない。

優しい言葉を重ねながら、信じてくれている人を傷つけている。
五分間は、その言葉で癒されているだろう。1時間は、その言葉の暖かさに浸っていられるだろう。1日間は、その言葉を信じてくれるだろう。

が、1年後には、その言葉は、信じてくれる人を傷つけていることになっているに間違いはございません。

人は傷つけ、傷つきながら生きていくしかないのだと、自分に言い放つのでありますが、
「造花だから踏みつけにしてもいいのか」
さっきまで誰かを飾っていた造花の花であります。

「おい、踏むな!」
男に食ってかかっても良いものでありましょーか。

家族であれば、後ろから押し倒して、造花を拾い上げるかもしれませんですが、
「踏むな!」
と、抗議すれば、きっと、
「おかしいのではないか」
公安に突き出されるのは私メでありましょー。

男の靴の底から、造花を拾い上げ、
「この造花はどなたのですかぁ!」
声をあげれば、乗客たちは驚いて、別の車両へと逃げ出すに決まっておりますです。

「ごめんなさい、ごめんなさい。造花を踏みつけにしたのは私メではないのですが、でも、でも、私メなんです」
と造花を胸に抱いたまま、公安たちの拳銃で撃たれ、窓ガラスを真っ赤に染めて、ハチの巣にされることは目に見えておるのであります。

しかし、造花を無神経に、いや無意識に踏みつけた男に怒りを覚える、その私メの心の底には、大事な人を知らずに傷つけている同罪の贖罪があるのかもしれませんです。