2020
12.24

期待していた店のお味が落ちていることに気づくことは、いくつかの悲しみの中の一つであります。
「ありゃ、味がおじだな」
とこがどーだというのではありません。
コミンとしないのであります。
コクを失ったとでもいうのでしょーか。
「やっばり。待った甲斐がねがったな、これだば」
と老母。

その店は客が来てから蕎麦を切るので、注文してから小一時間は待たねばなりません。

私メは板わさ、1.8倍盛り。1300円を頼んだのでありました。

「鑑定なども手抜きは許されないのだ」
などと不味くなった悲しみを、プラスに受け止めよーとしたのでありまして、そーいうことは、たぶんモリオカに来てはじめて気持ちが安定していたと気づかされるのでありました。

突如として顔面が蒼白になった叔父の容態は知りません。
葬式となったら私メは付け法事で坊主の隣に座られられることになるのでありましょー。
それは楽しい未来なのであります。

蕎麦湯で腹を満たし、そのあとは、いにしえの残るモリオカの各所をまわりましたです。

郷里から懐かしい通りが失われ、あるべきはずの建物がなくなっていることを目にするのは、憤りにも似た悲しみでございます。
時代なのだ、どうしよーもない時の流れなのだと理解はしても、感情が言いようのない悔しさに塞がれるのでございます。

「帰ってニーノ・ロータでも聴くべか」

他人の作ったものを他人が取り壊し、それで勝手に悲しくなり、他人の作曲した曲で慰められよーとしている自分がバカバカしくもありました。

蕎麦が不味くなったからといって、それだとて他人が作った蕎麦でございます。

悲しみというのは、受け止め側の問題なのかもしれませんです。いや、喜びというモノのほとんども自分をとりまく周囲の受け入れ状態なのかもしれませんです。

ほんとうの悲しみや喜びは、じつに数えるほどしかないのかもしれません。
視覚、聴覚、嗅覚などを身を守る消極として使用しているうちは幸せで、これらを反対に積極として用いる癖が出来ると不幸を覚えるのではなかろーかと、
「オラはここでまってるがら」
パーキングに停めたクルマに戻るのでありました。

豚肉とセリとサニーレタスがトランクにございます。
悲しみをぶっ飛ばす食材としてはやや足りないよーにも思えますです。