2021
10.15

私メの仕事は、世間から言わせれば非常識な方法で、相談者の「しやわせ」の追求が究極でございます。
が、「しやわせ」とはいったい何か。

職業上、この点を、あたかも哲学者の如く思考するのでございます。
一般的には、お金の有無だと言われております。

これまでのブログで、「自由」「健康」「お金」というのが私メの自論でございます。
お金と健康と自由が釣り合ってこそ、しやわせを体感するという意味でして、お金をたくさん持っていても、健康に難があれば、それはしやわせとは申せません。

同様に、元気でもお金や健康が脅かされてもダメ。
自由ばかりあってもお金に苦労していては人生を謳歌することは無理というものであります。

運命学には、しやわせの測定として、富・貴・福・寿などが挙げられております。

が、しやわせを堅苦しく考えると、そーなりますが、
「幸せ!」
と歓声を上げる瞬間はいくつもございます。

目指すお女性、あるいは男と恋が叶った瞬間。
いやいや、もっと身近に、仕事を終えた居酒屋で飲む一杯のビール。
焼き鳥の塩っ気をさっぱりさせるピールを喉に流し込んだ瞬間は、極楽でございましょー。

けれど、
「しやわせな人生ですね」
などと言おうものなら、手で追い払われるはずでございます。
本当のしやわせとは程遠い。いや、求めているしやわせではなく、逃避としてのしやわせだからでございましょー。

私メ自身を振り返りますです。
別に易者を目指して易者になったわけではございません。
でも、現在の、誰にも使われず、自分の時間を自由に使えるという生活は、
「しやわせ以外のなにものでもないだろー」
と思っております。

それなのに仕事が山ほどある時などは、
「はやく終えて、しやわせになりたい」
などと勝手なことを願うのでございます。
「はやくウィスキーを飲みたい…!」と。

いずれにせよ、しやわせの種類を考えた時、お金だけではなく、お金があってもなくても、そこに自分がほんとうに望む生き方があるのかもしれませんですよ。

とは申しましても、お金は重要であることに変わりはございませんが。