10.18
「もはや信じることはできない」
それでも、心の中で理屈をつけ、相手を信じようといたします。
夫に裏切られた。妻に裏切られた。恋人に、友達に、上司に、部下に裏切られたとしても、それでも限界ギリギリまで、どこかで信じようといたします。
しかし、一度でも裏切られたら、もう捨てるしかないモノがございます。
時計でございます。
時計が壊れたのであります。
目覚ましが鳴りませんでした。
それでも平気に針は秒を刻んでいます。
「もうお仕舞だよ、分かっているよな」
直っているよーに見えても、いつなんどき、また目覚ましのチャイムが鳴らなくならないとも限りません。
いままで私メのために、忠実に起こしてくれていたのですが、
「使い物にならない」
そうしてゴミ箱に捨てられることになるのでありました。
時計は言いたいことでしょう。
「たった一度の過ちだぜ。お女性に裏切られても、オマエは許してやっていたじゃないか。オレは知ってるよ」
時計の非難の声に考えてしまいますです。
損得なのだろうか。お女性の価値はソコではないからなのか。子宮や乳房を全摘したら、私メはお女性を時計のよーに捨ててしまおうとするのであろうか、と。時計には心がなく、お女性には心があるからなのか。
気に入ったクルマがありました。その愛車が突如としてブレーキが故障した時も、修理に修理を重ねてまいりました。
もしかすると、私メは時計を裏切ったことがない。裏切る意識さえなかった時計から、一方的に裏切られたことに、そのすべての存在価値を否定しようとしているのかもしれませんです。
お女性に裏切られても、
「おあいこだな」
自分の裏切り行為を省みているから、「気持ちよかったのか、どーされたのだ?」と、裏切られても、それを遊びの道具に使えるのかもしれませんです。
ゴミ箱に時計を落とした刹那、
時とは何だ、信頼とはなんだ、愛とはなんだ。それほど重大なことなのか。
命とはいったいなんなのた。
答えは、ゴトンと落下する音でありました。