2023
02.06

「ああ、ここは気が感じられないなぁ」
事務所の近くにある赤城神社に詣でた時の素直な感想でございます。
立春も過ぎ、本日は二月六日というシャレなのか、日露開戦の記念日なのです。

実際には明治37年2月8日に旅順港のロシア艦隊夜襲の日をもって開戦となるのでありますが、宣戦布告は2月10日。

乃木大将ひきいる日本軍が二百三高地をめぐり血みどろの戦いをしたことは、映画などで有名でございます。
以前、暇つぶしに、この二百三高地攻めの方位を調べたことがございます。
「へえっ」
と目が覚める驚きを覚えたことがございます。
同年、8月19日に第1回、第1回目旅順総攻撃を仕掛けております。この方位は、座山日盤で見ますと、ロシア側は八門受制の凶格。発展性が失われるのであります。天地盤は辛×甲の刃こぼれの方位。対する日本側は丁奇昇殿の吉格。
9月19日は昼夜に渡り旅順と二百三高地を同時に攻撃。日本軍は壊滅状態に陥るのであります。
しかし、座山日盤でみれば、日本にとっては悪くない方位なのでありました。
とりわけ9月20日の座山日盤は、ロシア側は刑格という大凶方位。日本側は甲×丁の吉方位。
10月30日の総攻撃では、敵味方合わせて9000人以上の死傷者を出しています。日本軍は一個連隊半の4600人に及ぶ死傷者。
この日に座山日盤はロシア側は死門。日本側は丁奇昇殿で生門。
しかし二百三高地は陥落いたしませんでした。
例を挙げればキリがございません。
とにかく吉方位だったのに、日本軍の死者はおびただしく、これでは奇門遁甲を信じられないのではないかと思うほどの悲惨な結末なのであります。

が、
「もしや…」
この敗戦は、あえて血の座山ではないかと気づいたのであります。
ロシア革命がその後に勃発し、日本が勝利するキッカケになるのでありますが、この「血の座山」で、日本はあえて死傷者を出さなければならなかったのでは…と。
ロシア革命は奇門遁甲の血の座山が引き起こした結果ではないかと。

日露戦争の影には、奇門遁甲の術師がかならず存在したと確信すると同時に、
「国の政策にのることは、血の座山のような材料に使われることになる」
この不信もまた確信となったのでございました。

奇門遁甲で歴史を紐解くと面白いことが見えてくるのでありました。