11.03
アマチュアカメラマンだった亡父の写真が、岩手県花巻市の、宮沢賢治ミュージアムに展示されているというので、ちとおもむいてみたのでありました。
「あんやぁ、コレ、お父ちゃんの写真だぁん」
と老母が目ざとく、ポスターの背景の写真を、
「なつかしごどぉ」
と指差したのでございました。
趣味というものは恐ろしいもので、亡父の写真道楽は自宅に現像のための暗室までこしらえるほどなのでございました。
残された写真ははなれの書斎にいまなお膨大な量で残されておりますです。
館内のおくまった場所に、その写真はございました。
昭和25年から昭和30年ころにかけてとりためた、種山が原に放牧された馬たちの写真であります。
宮沢賢治の文章とあわせて、しかしどこか、亡父の肉声を聞いているようで、おもはゆいのでありました。
「あんや、これだけっか」
と老母。
「もっといっぺ展示してければいがったのに」
ひととおり眺めまして、担当の人に挨拶し、ミュージアムをあとにしたのであります。
もし亡父が、写真ではなく女にのめり込んでいたならば、どうだったのだろうと車のハンドルをあやつりながら妄想するのでありました。
別の女に子供がいて、それは私と同じくらいの年代になっていて、その人のコンサートに招かれていたのかもしれません。
その人が、男であるなら、亡父と似た声でオペラなんかを歌っているのを聞きつつ、となりの座席で老母が「あんや、お父ちゃんとそっくりな声だごどぉ」などと声をもらしているのを苦笑していたのかもしれません。
それもまたよかったかもしれない、と思うのでありました。
ふと、亡き師匠から譲られた数冊のノートをおもいだしました。
断易に関する秘伝のノートであります。
そろそろ、それらを講義して、あとの人たちに伝えていかなければらない頃ではないか、と。
ちまたで出されている断易本ではございません。
原典にそって忠実に訳され、それに付随する占例のついたもので、たぶん、日本では…というより、すべて揃った形では、私以外に所有しているものはないでありましょう。
ひたすらまっすぐな色気も何もない国道456号線をモリオカへと引き返すのでありました。
一の酉の日でしたので浅草へ行ってきました~
大好きな熊手選びに 時間をかけてそぞろ歩いてきました
浅草は混んでいたので移動 熊手を抱え たどり着いた先は
つ、ついに ガード下のカオス デビュー?!
気候も今年最後の オープン・テラスでなく 道路? 車道?
足元に ねずみ??? <<ぎゃ~っ>>であります!!!
火を使ったお料理しか食べたくないです(店もモツしか出さない)
いつぞやのカレーのずんどうにネズミ混入の日本食堂の事件が蘇りました
アンダーグラウンド杉ですっ 降参!・・・ってことで
せんべろ いえ、せんバル(数千円で楽しめるバール)へ ~ほっ。。
移動中 ロンポノ映画館やら おもちゃ屋さんやら・・んーー
さっき 熊手買いましたから我慢しまっす・爆
ここはサラリーマンの聖地 びっくりで楽しい新橋でございました 。
十傅ママ、 一人になられて 淋しいのでしょうね~なんか伝わってきます
実家の近所には 結構未亡人になったとたん 赤い口紅つけて
元気に若返っていく おばあさんが多いらしいです・・
私は 花柄のムームーみたいなルーズな洋服に赤い靴はいてすごし
でも未亡人になったら<総黒>にします 欧羅巴のおばあちゃんみたく・夢&憧
●十傳より→今年は三の酉までありますです。「三の酉まである年は、寒いと人がいう」とかなんとか、そういう歌がございましたね。清水由紀子だったかの歌だったでありましょうか。
先生と同じく(?)年末に向けて仕事がたて込んで…
毎日こんな時間まで書類と格闘です。ふぅ。
先生のその知識と、お師匠さまから譲り受けたもの…
あとに残すのも、先生の大事なお仕事ですよね。
世界中でたったひとつですものね…。
継承者候補、まだいないなら、
先生が「この人なら」と思う人物を見つけるのが、まずは大変そう…。
先生の講義はとっても厳しそうだから。
●十傳より→もう広く一般に講義して、数で伝えていくしかないだろうと考えておるのであります。優しいですよ、私メの講義は。