2012
09.30
速度が問題なのだ、人生の絶対量は決まっている気がする…という名言をのこして、鈴木いずみが自殺してから、何年になるのでありましょうか。
「オノさん、彼女が生きてたら、絶対に惚れるな」
と、鈴木いずみの写真集をベッドの上で広げて見せながら、お女性がニタリとしたのも、そうとうに昔の話でありますです。
お女性の部屋は乱雑でひろげた新聞紙のうえに、新聞紙がひろがり、うごくと振動でカサコソと落ち葉のような音をたてるのでありました。
「愛の絶対量もきまってるよね」
「ということだな」
「わたしたちの絶対量はどのくらいかな」
「さあな、どのくらいだろう」
ぐったりして指も動かせないほどの疲労感に沈没した私メのカラダに、おイタをしながら、お女性は「愛なんてないから、いいか…」とニタニタするのでございました。
しかし、やはり絶対量は存在したようでありました。
ある日を境に、ピタリと豪徳寺に足をのばしたことはないのでありますから。
そして、つい先ごろ、別のお女性から、
「言ってイイ?」と前置きして「乳癌らしいのよ」と告げられたのでありました。
「誰が?」
[わたし」
その、お女性とはただの飲み友達。
が、あと二年したら「ヤロウ!」と決めていたのでありました。
「約束、実現できないかもしれないよ」
つと、癌のあるというオッパイを触れてみました。服の上からでありますが。
やわらかなブラごしに、手のひらにずっしりと重みが感じられました。
そのお女性は、べつに嫌がりもせず、
「痛くないのよ、ほんとに癌かな。怖くもないんだよ」
「嘘つけ、怖くないことなんかあるものか」
「傷口を舐めてやるから大丈夫だ、気持ちいいぞ」
「なにが大丈夫なのよ」
「ちゃんと勃起するってこと」
お女性はバカじゃないの、と笑うのでありますが、口先だけより、勃起は重大であるのであります。
勃起こそ、愛の、それが濁情だとしても心の証明なのでございましょう。
愛の絶対量は、たしかに速度と関係ありますです。
早ければ、それだけ濁情は消費されますです。
が、何もせずにとっておいても、揮発して滅ぶようでございますです。
果実が腐敗するように。
カウンターの葡萄をひとつぶ口に含み、「乳首は残してほしいものだ」と思うのでした。
「武器よさらばだね」
お女性のいう武器は、女の武器か、男のアレか、夜のひかりをあつめて街はぼんやりと沈んでいるのであります。
いつになく水割りをかさねても酔いは、いっこうに回ってこない夜でありました。
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2012
09.29
小岩井牧場のどんつきに網張温泉があるのであります。
スキー場として地元では親しまれているのでありますが、いまの時期は岩手山の登山道のひとつとして、リフトが運転されているのでございます。
老母をつれて、ではこの世の最後のパラノマの見納めにと、そのリフトをつかって登ったのでありました。
中腹のロッジは次の季節を待っているのでありました。
風は西から東へと、前髪を煽るのでございます。
あまい秋の大地を嗅いでいますと、自分が疲れていたことが分かったりいたします。
人を傷つけていたけれど、じつは自分もまた傷ついていたらしいのでありました。
草を踏みつつ、そのなんと懐かしい弾力であることか。
ちいさな花々は待っていたかのように迎えてくれるのでありました。
雪のない季節に、ここに立つのは、何十年ぶりでありましょうか。
いや、スキーをやめて、すでに20年が経過しておりますです。
見納めは、もしかすると私メのほうかもしれないのでありました。
さよならだけが人生よ、という歌だったかがありましたが、たしかに、いくつものサヨナラを繰り返しておりますですね。
ただいま、と語りかけるには、まだいささか照れくさいし、かといって、こんにちは、でもありません。
サヨナラの数だけ出会いがあるという迷信をまともに受け止めるには年をくいすぎてもおります。
二基のリフトを乗り継いで、ここは兎平でございます。
私メの後ろを、老母はおぼつかない足取りでついてくるのでありました。
ブナの木で守られた山は、風すらも止まっているのでございます。
かつて、ちいさなロッジのわきにスキー板をさして、寒さをさけたものでしたが、いまは廃墟同然。
仲間の歓声が、記憶からよみがえることもございません。
帰らざる日々なのでありますです。
目をつぶっていても、このゲレンデの状態、どこがアイスバーンで、どこになにがあるかまで熟知していたはずでありましたが、雪がなくては、かいもく見当もつかないのでありました。
仲間たちとの会話のひとつも思いだけませぬ。
そういう楽しいことが、果たして存在したのかすら、嘘のようなのでありました。
訣別の言葉を受け取っても、さほど衝撃でもない恋の終わりのようであります。
とっくに濁情は滅んでいたことを、いまさらのように確認するのみで、意味のないため息をくりかえすような気分なのでありました。
リンドウが群生し、すすきがなびき、あとはリフトのうごく音だけ。
が、カラダのなかの水が、入れ替わったような新鮮さだけが残っているのでした。
「腹へったね」
「なに食べるえん?」
たわいのない会話も、やかては忘れていくのでありましょう。
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2012
09.28
東京駅の待合室は活気にみちた静けさが漂っているのであります。
行く人、帰る人が交差するのが駅なのでありますが、午前の東京駅は、みな、どこかへ旅立つ人のようでありますです。
人、それぞれ、何かの目的があって、「行く」という行動は行為であって目的ではありますまい。
私メは、毎年、10月いっぱいは油断の出来ない一ヶ月なのであります。
人間関係のゴタゴタに見舞われピンチに陥るのが常であります。
が、そのピンチというか、この月の不運は、やがて幸運に変換されることで一致していることも、経験的になんとなく体得しているので、この月は、大変なことの発生を、どこかで期待しているところもございますです。
「さようならの10月」とでもタイトルをつけたいくらいであります。
大凶は吉に通じると申しますでしょう。
誰かに嫌われ、暴言で罵れ、悲しみと絶望に落ち込んだとき、その悲しみと絶望にこそ、再起の芽が出ているのでありますです。
救いの手はとんでもない方角から差し出されるものであります。
自分の思い描いている未来の姿ではございません。
「もう生きていく力もないし、誰のことも信用できない」
と、自殺しそうなお女性が、一ヶ月後には羨ましいほどの男を見つけて、結婚することも現実では多々あるのであります。
秋は、はじまったばかりでありますが、その秋の中には、すでに、次の季節の兆しを感じられるように、悲しみは、運命が別の喜びを与えてくれる駅なのかもしれませんです。
気休めの言葉ではありませぬ。
自分の考えている未来にならないと嘆くのは仕方ありませんですが、悲しい出来事が起こったならば、その悲しみを「もう終わったことだよね」と受け止めるしかないのであります。
そう、悲しみは、結果であります。いまさら、どうしようもないわけであります。
一人で人生の駅にたたずむのも悪くはございますまい。
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