2017
04.18

十傳スクールの講義を終え、急いで東京駅へ。
それだけで背中に汗が流れるほど暑い日でありました。

郷里のモリオカへの新幹線の指定席の時間が迫っていたのでございます。

近所の人たちへの手土産と駅弁を買ったら、もう発車すれすれでございました。飛び乗り、座席についたら新幹線はホームをすべるように動き出し、セーフ。

東北に入ると、東京の意識が遠のき、田舎人に完全にシフトするから奇妙でございます。

今回の帰省は味噌作り。
桜が咲く前に仕込み、味噌が完成するのは秋の初めころになるのでございます。
その桜は、車窓から見る限り、福島あたりが満開らしいのであります。

「なにか忘れているよーな気がするなぁ」
最近、どこかに行くときに、かならず頭をよぎります。
それはモノなのか気持ちなのか分かりませぬが、それが何だとしても身体の左右のバランスがとれない不和感に陥るのであります。
年齢のせいだろうと、気持ちを切り替えることにいたしました。

いつか私メはモリオカに戻るのでありましょうか。
モリオカで生活をする日が来るのでありましょーか。

18歳に郷里を出て、ずっと三塁に残留している気がしないでもありませぬ。

その日が来た時、新幹線での落日をひどく懐かしむことになるのでございましょーか。
気がつくと、哀れなほど老けていて、盆栽の枝にハサミを入れていて、大切な枝を切り落としてしまったところだったりしているのかもしれません。
お女性のお顔を想い出しては涙ぐむのかもしれませぬ。

焦ることはなにもないのだと、うとうとしたことでございました。

 

2017
04.17

望みは忘れたころにかなえられる。だから、何事も執拗に求めてはならない。
と、いう意味のことを、当ブログで何回か語ったように思います。

昨日の断易初等科Cの講義をしていて「空世者即致」という用語にぶつかり、ああ、完全に占い体質になっていることを思い知ったのでございました。

この用語こそ、待ち人は諦めたころにやって来るという意味でございます。
相手からの電話を待ち焦がれてもかかってくるものではありません。携帯を置いて、トイレに入ると呼び出し音がなるという経験はあるはずであります。

待つという執着、夢をかなえようという情熱、そういう自分の強さに、運は引いてしまうのでございます。
諦めた時、間合いを外したときに、いとも簡単に手の中に飛び込んでくるわけであります。

もう嫌悪しか残っていない相手から、しつこく連絡があるなどは、その極端な例かもしれませんですね。

今春から、十傳スクールは、占いビジネスのヒントも講義の合間に語ることにいたしました。
そろそろ独立したい気運を感じ取っているからでございます。
占いはビジネスの宝庫でございます。
が、それだって空世者即致の原則は生きていて、「ぜったいに成功させるんだ」とか「大儲けしてやる」と意気まいていては絶対に上手くいきません。

どうやら運は、必死とか情熱のよーなものを嫌っているご様子であります。

商売も恋も、「どうでもいいや」と力を緩めてみてみてくださいまし。
きっと思いがけない方角から手が差し伸べられることでありましょう。

2017
04.16

十傳スクールが始まるまで、神田の街をブラついていたのであります。

神田は思い出の街であります。20代から40代まで、神田周辺に縁がございました。
時代の流れとともに、古い建物は壊され、新しい建物に生まれ変わり、当時とはまったく違う街に変貌しているのでありました。

そんな神田に、この喫茶店がまだ残っていたことは驚きであります。
いくどか珈琲を味わいに入ったことがございます。

が、その記憶がリアルではないのでございます。
誰と一緒だったかも定かではありませぬ。

「赤レンガ」というレタリング文字だけが懐かしく、ほかの一切は記憶から消されているのでありました。
店内をのぞきましたけれど、見知らぬ光景でありました。

ふつう、懐かしい光景を目にすると、記憶がとりとめもなく溢れ出すはずなのに、頭脳は停止したまま。

もしや、何かイヤな出来事があり、記憶を封じているのかもしれませぬ。

思考をさぐるのをやめた方がイイと、心のどこかで語るモノがおります。
この場を立ち去れと。

四柱推命卒論科の講義をしながら、しばしば、喫茶店の文字が脳裏で点滅していたのでございます。
まるで髪の毛でお女性の顔がかくれて見えないよーなもどかしさのなか、時が流れるのでございました。