04.22
被災地、釜石からであります。
従弟の家の瓦礫撤去のお手伝いに来たのでありますけれど、あまりの惨状に頭脳は働きを停止してしまったのであります。
街はあれから一か月と11日ほど経っていますが、やっと車が通れる程度に片づけられただけで、かんぜんにゴーストタウンと化しているのでありました。
しかし、まずは立ちションをいたしました。
私の立っている場所で四人の折り重なった死体が発見されたとのこと。
津波は街の中心部をたかさ三メートルを超えて襲ったそうなのであります。
愛とかセックスとか、この自然災害の前ではなんともくだらないことのようにおもわれるのでありました。
愛で悩んでいるならば、この壊滅した街を眺めればたちどころに治るはずであります。
信号もダメになったまま、街は見捨てられているのでございます。「おーい」
と叫ぶと、死んだ者たちが顔をそろえて窓から笑顔で手を振ってくれるような気がするのであります。
大量の死者は街全体を息苦しい空気にさせるのでありました。
従弟は言いました。
「火葬の時なんだけど」
亡くした嫁さんを火葬にふしたときのことをいうのであります。
「火葬の扉が閉まらなくなってお棺が飛び出してきたんだよ。なんど閉めようと係の人がやるんだけと、まだ焼かないでっていうようにお棺が飛び出してくるんだよ」
と。
瓦礫のなかからは誰のものとも知れない写真やそんなものがいくつもいくつもでてくるのであります。
思い出もすべて亡くなってしまうのでございましょうか。
作業の手をやすめ、瓦礫に座り込んでそんな一枚一枚をながめるのでございます。
「ラーメンたべる?」
といわれ、そういえば朝からなにも食っていないことに気づき、車からガスボンベを取り出し飯盒炊爨の真似事をするのであります。
街の中心地もこのような有様であります。津波は、このアーケードより上まで押し寄せたということであります。
生まれて初めて目にした光景であります。
生きて死に、生きて死に、生きて死んでいく。
ただそれだけなのでしょう。
「頑張ろう」という掛け声が、なんと陳腐で軽薄に聞こえることか。
が、それを呟くことも愚かしく、知ったことじゃないと黙々と作業を続けるだけなのでありました。
「頑張って!!」という言葉を禁止にしております。
「応援してるよ」と言うようにしています。
●十傳より→その言葉は被災者にとって泉のようであります。自衛隊の奴らもすべて疲れております。ほとんど無言なのであります。やりきれないのであります。「応援してるよ」はいいですねぇ。
私の娘が、学生で神戸に、居ました。その時に阪神淡路大震災の直撃に会いました。寮の4階でしたが、被害には、ほとんどあいませんでしたが、ライフラインが止まり帰る事になっても、新幹線は、不通になり仕方なく娘は、日本海周りで帰ってきました。でもその車中は、ごった返していて皆とても、親切で、少ないおにぎりを周りの、知らない人達が、お互い分け合っていたそうです。娘も、もらって食べたその時の味が、忘れられないそうです。14時間かかって帰ってきました。後学校に戻り何ヶ月かして、少し世の中が、落ち着いてからとても、物騒になったそうです。震災に会われた方は、どんなにか心にも、傷をおっていることでしょう。心のケアもすごく大切だと、感じます。
●十傳より→死人の指を、指を切断して奪うドロボーが多発しているそうです。が、これもまた人間なのであります。イイとか悪いとかではなく、これが人間。
十傳先生のこれが、人間というので、思い出しました。私の家族は、信州に戦中に疎開をしました。昭和24年に祖父が、疎開先で、亡くなりました。その時にお棺の中に祖父の使っていたステッキとか、山高帽とか、衣類、眼鏡とか、愛用の品を入れましたところ、お手伝いに来ていた近所の方とか、会社の人達が、皆でこんなの、もったいないといって、全部だして、持って行ってしまったと母に聞きました。父は、ほっときなさいと、いってたそうです。お棺に入れるものが、なくなってしまったと聞きました。あんなにおしゃれな、祖父が、何も持たずに旅立ちました。
●十傳より→被災地で関東の奴らが来て死人の指輪を、指を切断して持ち去る強盗か増えておるのであります。が、それを悪だといえぬ私もいるのであります。