2016
09.21

朝の東西線の網棚に、拳銃が忘れられているのでございました。

無言の威圧を車内に放っておりました。
玩具だろうが、関係ございません。
黒い銃口が向けられているのはどこなのか。

これが男根の玩具、つまりバイブなどだったらどーだろうかなんて思うのでございました。

先日は、女性器の象徴であるお靴。
そしてこの日は、男性器の象徴たる拳銃。

津田沼から中野へと向かう車両で、拳銃を発見したのは九段下でありますから、電車を人生に置き換えれば、だいたい60代あたりでありましょうか。まさに私メの年齢だというのは、あまりに手前味噌かもしれませんですね。
では、一日に置き換えれば夕刻。

そーいえば、帰宅途中の茅ヶ崎駅では、もの凄い土砂降り。銃撃の嵐の如くのふり方でございました。

一人の少女が弁当屋の店先で雨宿りしておりました。
そのあいだにも足元を機関銃のように雨が叩くのでございます。

すると、少女が突如として走り出したのでございます。
迎えの車の到着を見つけたのでございましょう。

車は、光のトゲを放っているように雨にしぶいているのでございました。
フロントガラスのワイパーが左右に雨を払っております。
その運転席の母親らしきお顔が、ほんの一瞬、街のあかりの加減でのぞけました。そして、視線が私メとからみました。

一瞬、いいえ一瞬の二分の一ほどの永遠の瞬間でしたが、
「……ちゃん!」
私メは叫びそーになったのであります。
名前が出てきませぬ。

このブログをUPしている今も、その名前が喉元につかえたまま忘れておるのでございますが、その母親らしきお女性は、高校のクラスメイトてありました。

と、考え、首を振るのでございます。
少女の母親ほど彼女は若くはないのだ、と。

朝の拳銃を想い出しているのであります。
玩具の拳銃なのに、頭の中では光より早く弾をはじき出す拳銃として時の距離感をなくしてぶら下がっているのでありました。

2016
09.19

雨の季節が訪れているのであります。
ひと雨ごとに気温が低くなるってのは、とても安心感がございます。

今年の十傳スクールは、とりわけ暑く、私メだけでなく受講生のみなさまも、さぞ辛かったことと存じます。

先ほどから茅ヶ崎も雨。
PCの手を止めて、雨音に聞きほれておるのであります。

クーラーが骨身に染みるほど効き、週末の、呪術セミナー坤の部の準備にも気合が入りますです。
セミナーに限らず、遁甲でも、推命でも断易でも、知っていることをお伝えしているのではありませぬ。私メにも向上心というものを、わずかながら持ち合わせておりまして、毎回、講義の準備をしながら「おお、そーであったか」なんて発見したりしては悦に入っているのでございます。

占いは単なる干支を用いての机上の遊戯ではございません。
理論を、じっさいの生活に合わせて用いることによって、千差万別の観法が可能になるのであります。

女体も温もりや汗ばみの加減や、粒子や、息遣いが異なるようにであります。

この美しい女体の裏側では、どのようなことを考えているのか、いかなる夢を描いて瞼を閉じているのか、濡れた髪の毛に隠された頭蓋骨の奥に記憶された男の名前はいかほどなのか、交接のある瞬間から突如として体臭を濃いものにして発情し始めた理由は、過去の経験と結びついたものなのか。ならば、その角度からさらに踏み込むべきなのか。

雨にかすんだ向こうの風景を、干支を用いて手探りで推測するためには、実生活をつねに観察し、それを人の行動のメニューとして頭の引き出しに分類することが大切なのでございます。
時代との整合性も必要であります。

何百年も前の人物の生年月日で勉強しても何にもなりませぬ。昭和、平成の生きたデータが必要なのであります。

最近、私メは講義後の疲労が尋常ではございませぬ。情事の後の如しであります。知っていることを伝えるだけであれば、これほどの疲労にならないことは知っておりますです。

今日は敬老の日。
せいぜい自分を慰安したいと思うのでございました。

2016
09.17

人相の修行の一つに、雨の日の電車に乗り、横に流れる雨を、縦に降る雨として認識するというモノがございます。

或る速度で電車は走っているわけで、雨粒が窓ガラスを横に流れるのは当然ことであります。しかし、実際には雨は上から下に降るのでありまして、それを車内で正しく見るのは、容易なことではございませぬ。
ただ、コツを覚えれば、その時の風によって雨が斜めに降っていることまで分かるようになりますです。

人相を教えてくれた老人は、「われわれは錯覚の中で生きている。その錯覚を取り除き、実相を見ることは、イイことかどうかは別として、訓練としてなさなければいけません」なんて禅問答に近いことを言われておりました。

錯覚の中で生きている。
たとえば石原裕次郎という人気俳優がいましたが、その映画が面白いかと言われれば、さっぱり面白くありませんです。しかし、面白いと騒いだのは時代の錯覚のせいによるものであります。

有名なレストランのフォアグラが美味いかどうか。「美味い!」と言いつつも、「それほどではない」と心で思ったりいたします。

遊園地で三時間も待ったりするのも何かの錯覚が原因しておりますです。

恋愛も同様かも知れませぬ。
失恋して悲しみに耽っているのも錯覚。世間ではよくある話だと気づいてしまうと、愛していたかどうかも怪しくなるものでございます。

占いに完全に染まってしまっている私メは、さっぱり面白いことがございませんです。
本を開くと、こうなってああなって、そしてそうやつて終るのだろうと知れてしまうし、これも職業病のひとつかもしれませんですね。

それでも占いは楽しいのであります。
会話のはしばしから「この人は傷官大旺だろう」とか「金寒水冷的な生年月日だろうな」とか「美人だけれど、ここでこういう言い方をするのは、ははーん、さては燥土の命だろう」とか、「このお女性は水生動物のようだから、この会話に変えれば落ちるだろう」とか、たまには大外れいたしますけれど、ついニヤニヤしてしまうのであります。

本日、四柱推命の初等科が終りました。
〆の言葉として「いくつかのポイントをチェックしながら大胆に推命してください」なんて申しましたが、推命もまた占者の人格があらわれるのでございます。

受講生の皆様にも、はやく私メの風景を見てもらいたいものだと期待いたしておりますです。
じつは私メの風景も錯覚かもしれませんけど。