2014
05.30
05.30
朝に池まで散歩したら一面に咲いておりました。
昨日の北の方位は庚でもましな庚丁でありましたが、庚特有の殺気はやや丸みを帯びているようであります。
なにを思い出せと、勿忘草が揺れているのか、しかし、雨の季節の到来する前の、人生でいえば、20代後半でもあるかのような夢踊る束の間の日々なのでありましょう。
座って思い出せと強要されているようなベンチを横目に通り過ぎるのでございますが、姿なき老人が腰かけているのでございました。
それは10年後の私メの魂魄なのか、別のなにものかの魂なのか。
そういえば昨夜、夜更けに、実家の古い屋敷の私メの部屋の襖の向こうにも似たような霊気を感じたのであります。
襖を開けましたけれど、暗闇が広がっておるばかりでありました。
実家で、私メ一人が、まだ幽霊をみておりませぬ。
家族も親戚も見たと申しております。
おそらく、夕べは、襖の向こうで、誰かがちんまりと坐っていたはずでございます。
想い出して、想い出して、と訴える如く勿忘草は揺れるばかり。
幽霊の見れる方位はあるのか、などと考えつつ小径をそぞろうのでありました。
運命学に幽霊などという記載はございませぬ。
墓場に家を建ててはならぬとは、ありますが、それは死者の霊魂にこぢつけて、地相の悪さを警告しているに過ぎないのであります。
むかしの墓地は深く穴を掘りますから、地盤が弱いのであります。
祟りを持ちださねば、そこに家を建てる人々があらわれるわけでございます。
祟りとか神様というのは、そういうところから誕生した、戒律を守らせるために人間が作り出したマボロシなのでございます。
ちがうー、いるよ、ここに。おもいだしてー。
勿忘草は瞼の奥に、その揺れを移したようでございますです。