2017
04.23

許された季節とおもったのか雑花どもが次々に咲いております。

むかし、亡父がモリオカで写真の個展をした時に、頼まれて「草原の雑花たち」とタイトルしてやったことがございますです。

あんがい成功し、アンケートを回収したら、「雑花が気に入った」の意見が多くあり、どーやら、やはり東北の人々は自分を雑花とか雑草ととらえておる傾向が近いようだと再確認したのでありました。
雑花だけど負けないぞ。雑花だから強いのだ…というふーに。
都会の美しいだけのかぼそい花とは、根本的に違うんだおん、と。

つまり、都会の花に対する哀れなほどの羨望の裏返しなのであります。

花は女性器の原型とかんがえれば、男にとって、花の意味は変わってまいりますです。「ああ、どいつもこいつも雑花か」「雑花にフラれたくらいでメソメソできるか」「いつかは都会のかよわい花を!」

そして、都会の花を抱いて思うのであります。
「やっぱりちがう。雑花よりイイでゃ」と。

が、やがて「こいつはただの都会の雑花であった」と知ることになるのでありますです。

花の良さは美しさと香しい匂いだけではございません。何も語らないからであります。

お女性は人間ではございませぬ。

お女性は女神様でございます。

それが人の言葉で、感情を訴えだすと堕女、ダメになるのでございます。
語らぬお女性は上女、ウメとして、そのうえが神女、カメとして、女神様なのであります。ダメ、ウメ、カメとランク分けできるのでございます。

差別だと言われても、そー思い信じているから、どーしよーもございませんです。差別的だとお考えの方の考え方を修正してもらわなければなりませんです。

それにしても雑花たちがはびこりだしました。

今年も花のシーズンを迎え、数々の濁恋が醜く始まるのでありましょう。
雑花より図々しい人々の恋。みていて切なくなるほど醜いのであります。
いいえ、醜いほど真剣なのでございます。

2017
04.21

かー、そこまで濁音で、自虐弁当を売らなくても…と、売り場を通過したのであります。

十傳スクールで、何度か笑いを取っているネタでございますが、順子さんという名前は、東北では、ズンコと発音されるのでございます。

けれど、自虐は青森県にはかないませぬ。
青森県は、歴史的に同志を裏切ってきた過去がございます。
蝦夷の民が、蝦夷の民を殺害した歴史であります。

その象徴となって伝わるのが、ねぶた祭り。

太宰治の作品の底辺を流れているのも、そんな裏切りの県民性の自虐であります。スコップ三味線しかり、地吹雪ツアーしかり。

が、岩手県は甘ちゃんで、どんなに濁音を使っても、それは商売上の自虐でしかございませぬ。

てな、どーでもいい、自分には関係のないことに気をとられて早朝のモリオカ駅構内をブラつくのでございました。

さーて、時代は動くよーであります。
世界情勢は、面白くなってまいりました。

2017
04.20

墓参りなのでありました。
四角い切り石に花を手向け、線香に火をともして、手を合わせるだけのことでありますが、そんな墓石が年々増えるのは、そういう年齢なのかもしれません。

最後の友達の墓石のひび割れに手を当てながら、私メは別のお女性を考えておりました。
「私の方が先だよね」
「いやいや、オレのほうが先に死ぬ」

おそらく、墓の下の骨と、彼女の見事な鎖骨と、骨つながりでの連想に違いありますまい。

その鎖骨に手を伸ばし、小指の腹でなぞりたい気持ちになったとき、そこはうす暗い料理屋で、そういえば料理人が北海島蝦をザルに入れて、「これです」などと自慢そうに持ってきたことを記憶しております。
と、その時、ハプニングが発生いたしました。

蝦が突如としてザルから躍り出で、腹を膨らましたとみせたと同時に、彼女めがけて水を放射したのでございます。右目に命中いたしました。
顔射ならぬ眼射でありました。

撃たれた彼女は一本の木が倒れるが如く、シートに倒れたのでありました。瞬時の出来事でございました。何者かが私メたちの関係を懲らしめようとしているかのよーに。

しばしして、
「のろい?」
「誰の…?」
ふたりとも言葉にはいたしませんでした。鎖骨が蝦の放った海水で濡れておるのでございました。
呪いや祟りに関する言葉は、禁句でございました。
その言葉を、使えば、滅びる関係だったからでございましょーか。
濡れた鎖骨は花びらを散らした氷柱のように、いやに誇らしげで「だからどうなの」と強がっておいででありました。

友達の墓石は、以前に当ブログでUPしましたが、やはりひび割れ、どころか今度は「福」にあたるところが欠けておりました。
しかも墓石全体が曇っておるのでございます。

モリオカの桜は音もなくほころび三分咲きで街をしずかに飾っております。

祟りなどではない。欠けた墓石を、取り返しのつかないことをしでかしてしまった時みたいに、指先でほじくるよーに撫でつつ、そんなことではないのだと自分に言い聞かせるのでございました。「あれは自分の願望だったのだ」とハンカチで右目を抑えたお女性を想い出すのでございました。「エビなど食っている段階ではなかったのだ」と。

だって、この世で、解明できないものは全体の30パーセントであり、うち25パーセントは占いで対処可能であり、残る5パーセントが呪いや祟りとかの分野に過ぎないのだからと。

いろいろな支障が発生するのは、そこに踏みとどまらず歩き出すべき時に踏みとどまっていることに対する、運命からの警鐘であることがほとんどなのであります。